カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.9.6 「贈与」という考え方

「贈与」。たいそうな表現ですが、要するに「贈りもの」「プレゼント」「寄付」などいろいろ

「物」の形はとらなくても「ボランティア」なども》

お金を仲だちにした「売買」、物と物との「交換」とは違い、一方的にタダであげる、もらうこと。

祝いの誕生日やクリスマスのプレゼント、つき合いのお歳暮などでなじみ深い。

 

当ブログは「プロ」ではなく無料のほう。考えれば「はてな」も「贈与」のひとつ。

みなさんとの出あいも「贈与」)

 

プレゼントされれば嬉しく、相手が身内なら「ありがとう」ですむ。

が、他人なら(相手との親密度によるとはいえ)そうはいかない。

義務はなくても相応の「お返し」をしなければ、「借り」(または「恩」)

つくった、負った気がするので、お返し」でスッキリしたいときもある。

(「お返し」の面倒くささにちょっとウンザリすることも)

 

しかし、ふだんの生活をよく見てみれば、贈与」と「お返し」はセットとして

満ちあふれており、「お互いさま」とか「サービス」「おもてなし」などの形で

人と人との関係、つき合いを潤滑油のようになめらかにしてくれている。

祝いやつき合いなど目に見える「物品」という形になるのはほんの僅か。

ほとんどは目には見えない。

感じようとしなければわからない。

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「贈与」について、8月の記事『あずかりやさん』でちょっと触れたけれど、

人生や社会における深い意味、意義をいまになってはじめて自覚した。

 

その言葉を知ってはいても、上っ面、語彙だけを知っていたにすぎなかった。

 

           


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よくよく考えてみれば、そもそも自分が人間として生まれ、

いま・ここに生きているという「奇跡」そのものが、

「天」からの「贈与」なのだ。

 

私は障害者になるという体験もあるから、自分が「生かされている」ということを

強く感じる。

(いまは障害者になったことですんでいるが、死んだかもしれない事故はこれまで数度もあった。

すべてが言葉の正しい意味での「自己責任」だった)

自分の力で「生きている」のじゃなく、「生かされている」ということを。

(何ものによって「生かされている」のか?

「天」としか答えようがない。

「天」とか「神」など「超越者」をもち出さないと成りたたないような新興宗教かオカルト集団の

教祖が説きそうな話をしましたが、私はいたって真面目

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宇宙の始まりは「ビッグバン」にあったと科学的な説明がされる。

(科学では説明できない物事に宗教の意義があるということがある本に述べられていた)

物事の起こりは何でも(宇宙でも、歩きはじめの一歩でも)最初の一撃は必要だ。

自分はどんな生きもの(そこらの虫、木や草花だったかもしれない)として生まれていた

かもしれない。

たとえ人間だったとしても、いついかなるところに生まれ、どういう能力を

どれだけ有していたかわからない。水子に終わっていたかもしれない。

(どうでもいいことですが)「天」「神」のみぞ知る。

 

たまたまの偶然で、人間として生まれ、この生を享け「贈与」され)具体的な

こういう人生を生きている

 

 

〈オマケ 「恩送り」〉

若いとき夜学に通っていたので昼間は働いていた。その人(先輩)の助手として車で外回り、仕事が

一息ついたとき、よく喫茶店コーヒーを奢られた。ありがたがり、恐縮していると

「あんたが先輩になったとき同じことをしてやればいいよ」と言われたのが忘れられない。

そのころはその言葉さえ知らなかったけれど、あれも「恩送り」という形の「贈与」だったのだ。

(私は東日本大震災のとき初めて「恩送り」を知った)

 

考えがまとまらないけれど、ともかく「贈与」という考え方はだいじなことだと思う。

 

 

 

 

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                         ちりとてちん

 

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