ひと口に「いのちはいちばんたいせつ」と言っても、たいせつにするし方は、
人々がどこで暮らし、いつの時代に生きているか、つまり文化により
形はさまざまであることを、この本はつよく教えてくれた。
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いのちを失う、無にするものとして、ありふれた身近なものは病気やケガ。
いまの日本では、これまでなら死ぬしかなかったものも助かるようになった。
ありがたい。
(日本の「世界に自慢できるものは?」と訊かれたら、私は迷わず「国民皆保険制度」と答える。
《原則ではあるけれど》いのちは平等に扱われ、お金によって差別されない)
医学・医療面での科学・技術の進歩、発達は、直接いのちにかかわることなので
ありがたく、私たちを幸せにしてくれる。
そうなのだけど、
人生という根本、より大きな次元、文脈のなか(「文化」といっていい)において
考えてみると、幸せのほうはおぼつかなくなる。
(「幸福度」というものさしで測れば、ブータン王国のように、日本より高い国はいっぱい)
「文化人類学」は科学・技術など文明的な尺度を超え、いのちというもの、
人間が生きるということを問う。
日本人の自分たちが暮らしている現代社会の「常識」とはちがう別の文化
(たとえそこが地球の片隅のある極少の人々の世界であろうとも)と比較し、照らしあわせ
深く考えてみようとする。
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南アメリカのコロンビア東部とブラジルのアマゾン川近くの熱帯雨林に
人口約3500人の先住民「デザナ族」が住む。
【引用】
「〈デザナの人々の世界観〉
①人間や動物、植物、自然界にある太陽や風にさえもいのちの存在を認め、
それらを総体として考えている
②それら全体の間にいのちの交流があり、その交流が途絶えることのないよう、
人間は自分達の行動を律しなければならない
③すべての世界の現象は「男性原理」と「女性原理」に分かれる
…
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〈デザナの人々の世界観〉を知り、腰がぬけるほど驚いた。
①のようなことは、世界各地のネイティブな民族の神話のなかで先祖代々にわたり
伝えられている教えにあって聞いたことがあるので驚かなかったけれど、
②の「自分達の行動を律しなければならない」にはビックリした。
なぜそうしなければならないのか?
彼らの考え、思いでは、「人類が生物系統図でいちばん上におかれているから」
つまり、人類という生きものだけができるという。
この人間の責務をなすには、
地球自然への環境負荷をかけないために、最低限(というか、これしかできない)
人間の数、人口を調整し、増やしすぎてはいけないという。
(さまざまな地球規模での環境負荷の問題が叫ばれるようになったけれど、それら個々の環境汚染や
資源枯渇などの問題も、突きつめれば人類が増えすぎたせいもある)
それを実践するためには、
地球上のほかの生物たちとのバランスを保たなければならない。
人口抑制のたいせつさをデザナの人々は納得、了解し、産児制限している。
(③の「男性原理」「女性原理」というのは、すべての物事は光と影、天と地、上と下、右と左、
凹と凸…のような相補的な関係にあるということ。中国の「陰陽思想」みたいなもの?)
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デザナの人々のような世界観とは無縁の日本。
(「少子化」は日本の「成長」「繁栄」にとっての問題とされている。
本には「われわれ日本人は、デザナ族のように説明する方法を持たないばかりでなく、
自らがとっている行動についての洞察がゆき届かなくなっている」とあった。
《デザナの人々の「洞察」とは上記①②のような世界観のこと》)