『民俗学入門』(菊池暁・著)という本を読んだ。
民俗学はいろいろ定義されようけれど、要は庶民の生活、文化を見つめる学問。
私には有名な柳田国男の『遠野物語』よりか、6年前に読み、それを記事にした
六車由実さんという女性の『介護民俗学』のほうが身近で数段よかった。
(これは、もと民俗学者の著者が、まったく畑ちがいの老人介護という施設職員となり、
民俗学の基本的な手法、相手からの「聞きとり調査」というものを用いて入所のお年寄りに働きかけ、
それまでボゥーとしてばかり、生気のなかった方々が昔、若かった、活動的だったころの自分を
思いだされることによって変化してゆく取りくみ、実践を著したもの)
今度のこれは民俗学のひとつの入門書で、「学問」と聞けばかたいイメージがする
けれど、人間の生活の基本だけ、しかも現代の私たちが興味を誘われるような話に
しぼられており、とてもおもしろかった。
いちばん強く感じたものだけを書きます。
①着る(衣) ②移動する(旅) ③知る、伝える(情報) ④つながる(社会)
きょうは①だけ。
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①着る(衣)
人間の基本的な生活をあらわした言葉に「衣食住」があり、このシンプルな表現は
よく聞き、慣れっこになっているので、深く考えることはあまりない。
しかし、ちょっと考えれば気がつくけど、住む家や着る服がなくても、
食べものさえあれば生きていける。
(人間も生きもの、動物の一種)
動物は食べることがいちばんだ。
(初めの人類がアフリカの赤道ちかくに誕生した理由のうちの一つは《もちろん初めは深い毛に
おおわれていただろうけれど》裸でいても寒くなく、着るものがいらないこともあったのだろうか)
「食」を、「衣」や「住」と同列においてはいけないと思った。
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「グレートジャーニー」によりアフリカを出たホモ・サピエンスが地球上の
あらゆるところにすみかを拡げていくなかで寒さにも適応しなければならず、
さまざまな着るもの、衣がつくられた。
この限りでは、生存のために食わねばならないのと同じように、生物学的な身体の
維持のために着なければならなかった。
(もちろん、安心して休み《寝》、子を産み、育てられる住居も)
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しかし著者は、
〈衣の普遍性とその起源〉という項目で、「生物的な「発情期」とは異なる文化的指標
(記号・象徴として衣)の導入によって、発情がコントロール」と述べる。
(考えてみたこともなかったので驚いた)
つまり、衣を身に着けるというのは、防寒という目的いがいに、
裸では(とくに女性の裸すがたは男性には生物レベルで)性的刺激となった発情しやすく
それを防ぐためでもある、と。なるほど!
(【コラム】欄の話→ ある若い男性の人類学者がフィールド調査で、熱帯の部族を訪ねたとき
その若者は調査への意気ごみから原住民の人たちに打ちとけようとすっ裸になった。
それを見て長老がチンチンと睾丸にかぶせる筒のようなものを渡した)
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次の話題に「谷間の発見」というのがあった。
「谷間? 何だそれ?」と思ったが、何のことはない、女性の胸のことだった。
胸に着けるブラジャーという衣類のことが述べられていた。
(着けたことないのでまったく実感できないけれど、「たかがブラジャーされどブラジャー」
奥ぶかいものを感じさせる真面目な話だった)
【引用】
「審美観は、世界は全知全能なる神の創造物であり、(ブラジャーを身に着けるということは)
その被造物たる人間の身体にも神の英知に基づく調和が実現されているはずだとするヘレニズム的
世界観ともどこかしら通底している」
引用はちょっと大げさだと思ったけど、
ブラジャーもふくめた「体型補正下着」について述べた次の引用もそう思った。
【引用】
「(ワコールなどの下着メーカーの女性の身体の精細な調査)計測の知と工業技術、着用習慣と
ボディ・イメージ、グローバル資本主義…そうした諸契機の絡まり合いの中に体型補正下着がある」
なるほど!
(「大げさ」という表現の問題ではなく)「たかが」は下がり「されど」感はますます
あがり、「体型補正下着」の奥のふかさ感が増した。
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着る(衣)の部分のほとんどは下着の話だった。
その理由を「社会的事実としての下着、あるいは慣習のポリティックス」ということで、
著者はこう述べる。
下着は「多くの人が着用しているにもかかわらず、大っぴらに論じられること」が少ないけれど
「「社会的事実」を具現する格好の素材」と。
最後、著者はブラジャーの一種「寄せて上げるブラ」をあげ、
「社会的事実としての下着、あるいは慣習のポリティックス」ということを、再び強調する。
【引用】
「それを身に付けるにせよ、身に付けないにせよ、…世の中の一員であることを避けられない私たちは
着る/着ない、欲する/欲しないといった私たちの身体をめぐる「選択」を重ねることを通じて、
この世界のあり方を容認/変革しようとする、きわめて根源的な位相において「ポリティカル」な存在
なのである。→(そう在ることによって、「この「世の中」への応答」している)」
要するに、なにを身に着け(広義にはどんな格好をし)ようと、あえて言わなくても
(主張しなくても)誰もが「私はこうなんですよ」と、
世の中、社会のあり方に応えているという。
なるほどなぁー!
民俗学的には、なにを着るかだけではなく、なにを食うか、どこでどんな家に
住むか、なども「この「世の中」への応答」のひとつなのか…