子どものころ、近くには一軒の食料品が主のごく小さな雑貨店しかなかった。
衣類や文房具などがいるときは、7㎞ほど離れた田舎町の中心部に出かけなければ
ならなかった。
(当時はこれがふつうで、こういう状態しか知らなかったので、「不便」と感じたことはなかった)
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動物は、たえず食べ物、獲物をさがし、狙っている。
(「生きる」ことは「食べる」ことなのだ)
「食」は人間にも、過去とか現代、未来をこえて絶対的。
豊富でなくても「食べる」ことは欠かせない。
(食料品を中心にさまざまな生活必需品がいつでもおかれているスーパーやコンビニなどは
安心して生きてゆくためになくてはならない。
いまは必要なものがそこで見つからなければネットで探し、注文し、宅配してもらうという
新たな求めかた、買いかたが出現し、そのサービス、恩恵に多くの人があずかっている)
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いまの日本ではたいていのところが、少し行けばあたり前のようにスーパーや
コンビニなどがある。
それら店舗に商品をはこび、おろしているトラック、また機敏な動作で家々に
せっせと注文品を届けている宅配の人を見ないときはない。
『物流危機は終わらない-暮らしをささえる労働のゆくえ』 首藤若菜・著
を読んだ。
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本に、「スーパーで野菜を手に取るとき、商品の生産地を確認したり、
パッケージに映る生産者の写真をみて、農家に思いを馳せたりすることはあっても
それを運搬してきたドライバーの姿を思い浮かべることは、まずない」とあった。
野菜を手に取ることはあまりないが、100円ショップでステキなものを見つけると
これが100円?!と称賛するとき、その商品をつくっている人、メーカーを想う
けれど、「運搬してきたドライバーの姿を思い浮かべることは、まずない」
ハンドルを握っていたときは、高速道路をはしることもよくあった。
夜おそくはしっていると、いろいろなトラックを見た。
運転手している人もさまざま。「トラック野郎」みたいなピチピチも、私のような
くたびれかけたオッサンも。
遊び、レクレーションが目的のたまの高速道路の運転ではない。
「運送」「運搬」という日常の仕事。
命がけ、緊張をともなうたいへんな仕事だ。
「暮らしを運ぶトラック-農家の野菜がスーパーに届くまで」という項目があり、
「物流の九割を占める日本経済の黒衣」
「今日、トラック輸送は、日本の物流の主軸」と述べられてあった。
なんと物流(鉄道便、海運、空便などすべて)の91%がトラック便とのこと。
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副題が『暮らしをささえる労働のゆくえ』とあるように、物流という私たちの生活
暮らしを根幹において支えながらも、その仕事がかえりみられにくく、
感謝されにくいトラック運転手の現場労働の辛さ、苛酷さの軽減、克服が
「国民的課題」になるようにさまざまな問題が提起されていた。
とくに終わりごろの「消費者と労働者のつながり」のなかの次の言葉、
「(トラック運転手の)長時間労働や過労死などの労働問題は、
消費者である私たちも関わり、加担して、生み出されている」と、
あとがきの
「私たちが得ている「安さ」や「早さ」が働く者の長時間労働や過労死と
引き換えに存在するならば、それは果たして社会的公正に適うのか」
が、強く印象に残った。
〈オマケのはなし〉
100円ショップにもネジを使った商品が多くある。
100円商品からいまの朝ドラを連想した。
物語のいまは、町の小さなネジ工場が、経営者だった主人公の父が亡くなり、危機に陥ったところ。
ドラマだからそこからの脱出、立ちなおりがこれからの物語の行方なのだろうが、町工場、中小企業の
実態《虚構もまじっているに違いないけれども》に触れられており、そのうえ「ネジ」自体の話も出て
とてもおもしろい。
私なんか、このドラマがはじまってのこれまでの話、主人公が飛行機のパイロットを目ざしてよりも
真剣にみている)