カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.1.27 「あんたかてアホや、うちかてアホや」

『日本精神史-自然宗教の逆襲』  阿満利麿・著 

という、「宗教」とか「精神」への関心とヒマがないと読まないような本を読んだ

読んでほんとうによかった。

とてもおもしろかった。

 

 

 

帯に「日本人とははたして何者か?」とあったが、

よくある日本人論の切り口とは違って新鮮だった。

 

私たち日本人は、自然の物事には神(霊魂)がやどり、その神を感じるという

アニミズム信仰に古代からなれ親しんできたが、「科学技術」万能の現代でも

心にはしっかり息づいている。

頭では「非科学的」「迷信」とはわかっていても、たとえば《やむをえない理由があっても》

食べものを捨てたり、《「土の肥やしになる」と自分に言いわけしても》用をたすべきところ

《便所》ではない場所でそれをするとバチが当たりそうな気がする《やむなくしたときは心のすみで

「神さま、すみませんでした」と謝った》)

ーーーーー

住んでいるところは関西でも大阪ではないからか、長く暮らしていても

現実にあんたかてアホや、うちかてアホや」は聞いたことがない。

(昔、テレビで「吉本」のお笑い芸人が笑いをとるためにしゃべっていたのは聞いた

 

この言葉は本の最後に出てきたけれど、著者の熱い思いがこもっていた。

そこでは、「あんたかてアホや、うちかてアホや」のシビアな言葉にひそむ

人間の本質を抉りだしたラディカル性、根源性を「羞恥心による連帯」と

橋本峰雄(大正生まれの法然院《京都》の僧侶)という先人が高く評価したことが

紹介されていた。

 

人間はみんな愚か。

愚かであることにおいて平等。

(ここでいう「愚か」とは、真理・真実からは遠いということだが、

その真理・真実が何かということは誰にもわからない)

自他の違い、差は「どんぐりの背くらべ」ほどしかない。

自分のこと、他人のことを「愚かな人間」と感じるのはどれほど大事かという。

 

自分のことを「愚かな人間と感じる羞恥心」において連帯することのたいせつさを

橋本峰雄は説く。

 

ーーーーーーーーーー

あんたかてアホや、うちかてアホや

というのは、感覚レベルでの連帯意識。

 

本では、この言葉が生まれてくるのに、法然の「専修念仏」が決定的な役割を

果たしたという。

 

       


ーーーーー

なぜか?

法然がはじめて、「凡夫」という人間のありようを明らかにしたから

 

専修念仏」は、ただただ「なむあみだぶつ南無阿弥陀仏」と唱えるだけで

例外なくすべての人(悪人さえも)に実践可能な行であり、「例外なくすべての人」が

救われるという。

救いというのは、現世がどれほど苦しく辛くても、極楽に往生できるということ。

これなら「凡夫」、誰にもできる。

        ↓

現代の人間には、浄土は空想か、力のないものの幻想、としか考えられないが、

人は、現実を相対化する空想や幻想なしでは、生きてゆけない存在だ。

そして人が生きるのは現世だけだという現世を絶対化する立場では、現世のもつ不条理は

運命論として思考の外に投げ捨てられるが、その不条理が何なのかはわからなくても

私たちには、真実な存在がどのようなあり方なのかは、残念ながら分からない。

しかし、今の自分のあり方が「真実」からは遠い、と意識することはできる

 

愚かな人間」、「凡夫」であることはわかる。

 

そして、「あんたかてアホや、うちかてアホや

ーーーーー

ただただ念仏を唱え、極楽往生、救いを願い、祈る。

 

人間は、なにごとにせよ願いなしには生きられない。

たとえ、その願いが実現されずとも、その願いがあるということで、

人はよく生きることができる

 

(「念仏」でなくても自分だけのおまじない、願いや祈りのこもった言葉でもいいと思う。

そういう「救い」があると「よく生きることができる」。そう思う)

 

 

                            

                            ちりとてちん

<