書名にひかれ、
『自由か、さもなくば幸福か? 21世紀の〈あり得べき社会〉を問う』 大屋雄裕・著
という本を読んだ。
「自由」も「幸福」もとてもたいせつだけど、どちらも客観的でもあり
主観的でもある。
「ある」といえばあるし、「ない」といえばない。
(実際は程度の問題かもしれない)
主観のほうに目をむければ、感情の問題になる。
「自由(不自由)」な感じ、「幸せ(不幸せ)な」感じというふうに。
個人のレベルではそうだとしても、(自分が生きている)社会ではどうだろうか。
(社会というものは客観的に存在する。「感じ」ではない。
「貧困」「差別」など何らかの社会問題が存在すれば、その被害者は《第三者からみれば、
つまり客観的には》「自由」「幸福」とは思えない。「不自由」「不幸」にみえる。
でも、自分がその問題の被害者でなければ、またその社会問題がほかの地域、ほかの時代と比べてマシ
だと感じればそれは相対的化され、少しは「幸福感」や「満足感」を感じられる。
また人は、《無理矢理でも》「自分の人生」を肯定したいがため、その社会問題の被害者になって
不幸な感情をもったとしても、人はある特定の社会でしか、しかも一回限りしか生きられないので、
幸せ《だった》と思おうとする場合もあるのでは…)
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本での著者の社会認識をきわめて簡単に述べれば
↓
18・19世紀の近代世界は「自由」「民主主義」をもたらした。
しかし、21世紀の現在、頭では「自由」が不可欠なほど大事だとわかっていても
技術面での監視カメラの飛躍的な性能向上と大量の設置が「監視社会」化を生み、
「IT社会」化は、社会に個人情報を提供しなくては生きにくいのに、しばしばその
情報は洩れ、個人の「自由」、プライバシーは脅かされつつある。
しかし、(その「代償」というべきか)それらは強力な「監視」「管理」機能をもち、
個人の「安心」「安全」をより確かに保障しているとされ、「幸福」につながる
とされる。
(ところで中国は、国家権力によるあまりに多い監視カメラの設置が「個人の安心・安全」より
「国民の管理」にあることを、あまりにあからさまに示している。
それと比べれば日本は圧倒的に少ない。
その日本では国など公的な、権力側の設置だけでは「個人の安心・安全」は心もとないということで、
居住地域や商店街など民間が自主的に増やしている。
というようなことを考えていたら、
「監視社会化」などが進み、プライバシーがますますなくなる《「自由」感の減少》点では同じでも
やっぱり日本は中国より生きやすいのだろうか?)
「自由」と「幸福」は分離しているかのように、相反しているかのように見える。
「自由か、さもなくば幸福か?」
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本の終わりのほうでは
「ホラーハウス社会」、「ミラーハウス社会」という、はじめて聞いた言葉があり
強く刺激された。
「ホラーハウス社会」とは、
「新たなコミュニティ・ムーブメント」という項目で述べられていた。
↓
「犯罪者という他者から自分たちを守るためのもの(によって)…我々の団結を確認する…
(そのことことによって)リスクを秘めた人々の外部化・他者化と疎外を強める…
『全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメント』、
街の安全を契機に構成される「新しいコミュニティ」…」
…
「「正しい」社会を構成している我々と異なる要素を持っているものは、
社会にとっての他者ないし敵である。
外国人(→名古屋入管のウィシュマさん死亡事件)や触法少年、犯罪前歴者や精神障害者。
わずかであれ我々と異なる点を持ち、我々の秩序を乱すと疑われる存在が監視と排除の対象となり、
彼らとの差異を確認することによって、我々の同質性・同一性が生み出される
→(「ゲーティッドコミュニティ」という「ホラーハウス」)
本当の意味で「普通の人」などこの世に存在しない(のに)…我々の姿が、我々自身を呪縛…」
…
「(危険ではなく)不安に根拠を置き、他者を疎外することを通じて我々の一体性や連帯、共同性を
確認
→(「ホラーハウス」は富裕層だけではなく「普通」の人々をも対象とする。
ホラーハウス社会はもう一つのあり得る未来社会」
〈オマケの話〉
本には「ホラーハウス社会はもう一つのあり得る未来社会」とあったけれど、現実はそうではない。
最後の「不安に根拠を置き、他者を疎外することを通じて我々の一体性や連帯、共同性を確認」は
私には(30年以上の昔)勤めていた児童福祉施設の全面改築で、地域の人々の理解を得るための
話し合い(住民集会」)をもったときのことを思いだした。
地域のみなさんの思いは、問題家庭の子どもたちの生活の場の児童福祉施設の建て替えの必要性は
わかっても、ここ(その地域)である必要はない、突きつめればそういうことだった。
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対して「ミラーハウス社会」とは、
「ホラーハウス社会の乗り越えかた」として述べられる。
↓
「「ミラーハウス」社会では、全員が等しく監視の眼の下に置かれる(このような監視社会が
幸福かと聞かれれば、おそらくNOに違いない)が、そのようなものとして誰しもが平等である。
(それが正義にかなった一つの社会構想であることは否定し得ない)
我々が次に問うべきなのは、たとえばホラーハウスのように我々(「普通の人」)にとっては
快適かもしれないが不正義の社会と、万人が不快を引き受けることの上に成立する正義にかなった
社会(「ミラーハウス」社会)のいずれを選択するのか、評価するのか」
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人間は社会や時代に根本では規定、制限されても(そういう意味では「不自由」でも)
心、思いは「自由」にできるから幸せに生きられる。
「気の持ちよう」がだいじ、というのは一面で人生の真実をついている。
そうだけど、『自由か、さもなくば幸福か?』と問われれば、「どっちも」
と答える。