その本のその部分に、衝撃をうけた。
ガーン…
私は、自分たちが生きている、住んでいるところ、社会、国が「自由」「平等」で
あってほしいが、現実はそうではないと思っている。
私が思う「自由」「平等」な社会とは、誰もが生きやすい世の中だ。
私は、それは誰もが願っていることだと思っているので、リベラル顔をよそおって
生きにくいと感じられる世の中の出来事や動きを批判、ブーブー文句をいい、
ときには、「何でみなさん、文句いわないのかな?」とも感じてきた。
(その「みなさん」も「文句」も、自分を中心に、自分に都合よく解釈しながら)
きょうの題名の「リベラルの『不寛容』」とはそういうこと。
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『使える哲学』 荒谷大輔・著 という。
その部分
↓
「リベラルの「不寛容」
表立って表明されない「不正義」に対して、リベラル派がさらに語気を強めて批判を展開しても、…
「エコー・チェンバー」の中で響くだけ…
(民主主義、公共性、正義を実現するために「熟議民主主義」ということを主張するリベラル派に
対して著者はいう)
それでもこの議論(「熟議民主主義」)には、理念が先に立ちすぎている側面が否めません。
社会はこのようなものでなければならないという理念が先に立てられ、
その実現がどれだけ現実的でありうるのかについては考えられていない
…
特定の理念(それがリベラルな考えで、その考えにしっかり納得するならそれ)にコミットして
はじめて成立するものだと考える必要があります。
…
コミットした覚えのない人までコミットするのが当たり前だと考えるところに、
この手の正義の困難があります」→(つまり、「独善的な正義」)
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とても耳が痛かった。
とくに痛かったのは、最後の
「コミットした覚えのない人までコミットするのが当たり前だと考えるところに」
という言葉。
何かにコミットしようと思えば、前提として、その何かに興味や関心をもち、
知ろうとしなければならない。
(その前に、その何かに遭遇しなければならない。
「遭遇」することがないと、コミットメントどころか、興味や関心さえもてない)
たとえもったとしても、「コミットする」だけの余裕、機会があるかどうかは
わからない。
(誰だって、日々の生活に追われていれば、差しあたり必要でないことは関係ない、どうでもいい)
そこまで人々のことを想像しなければいけないということを、
私はわかっていなかった。
(著者は他の本で、その人の「バックグラウンド」、つまり「背景」を想ってみることの大切さを
強く説いていた。まったくその通りだと思った。
「バックグラウンド」とはバックグラウンドミュージックのように今、流れている、聴こえている
背景の音楽だけではなく、人の場合、昔、過去が積もりつもって今があることを忘れてはならない)