『大震災のなかで-私たちは何をすべきか』 内橋克人編
という本を読んだ。
本は東日本大震災が起きてから3か月後の6月にさまざまな方によって書かれた。
いちばん初めが大江健三郎。
その人が先日、亡くなった。
(つい先には坂本龍一さんも亡くなった。
「いい人」と自分が思う方が早く死ぬと、これだけはどうしようもないと、いつものように
深いため息がでてしまって仕方ない。
文学、音楽と活躍されていた場は異なっても、お二人とも戦争反対の声を強くあげる人だった)
大江健三郎さんの小説は読んだことないので、何を書かれているのか知らない
けれど、憲法九条を守れ、原発反対など社会のたいせつな問題への意思表示を
きちんとされる人で、たんねんな取材で書かれた『広島ノート』『沖縄ノート』の
著作があることも知っていた。
1994年、ノーベル文学賞をとったときの受賞講演で、そのときから26年も前に
日本人で初めて受賞した川端康成の講演「美しい日本の私」をもじった
「あいまいな日本の私」という言葉だけは、いろいろなところでよく聞いた。
(だから言葉だけは知っていた)
が、それは大江健三郎の言葉であっても、文学的な表現として、そういう流れの
なかでのものにすぎないと、ほとんど気にも留めなかった。
(気にかかることなく、その言葉さえいつの間にか忘れていた)
この本で初めて「あいまいな日本の私」に込められた深い意味を知り、
何度もなんどもうなずいた。
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「〈私らは犠牲者に見つめられている〉
(「いっさいの軍備は持たない」「非核三原則」など、戦後しばらくは公然とは否定させなかった
理由は)日本人に戦争の苦難の、まだ生なましい記憶があったから」
…
「あいまいな日本人」とは日本人という主体が、この国の現状と将来において、
はっきりしたひとつの決定・選択をしていない、それを自分で猶予したままの状態…
そして他国からもおなじく猶予されている、と感じている状態…
過去についての国の誤ちをはっきりさせないままでいる」
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〈私らは犠牲者に見つめられている〉の「犠牲者」というのは、
東日本大震災で犠牲となった人々であり、あの戦争で犠牲となった人々。
自然が起こす災害は人為では防げなくとも、可能なかぎり最大限の努力で
国は国民を守らなければならない、戦争は国が積極的に行う合法的殺人だから絶対
してはならないし、防ぐことができる。
人間は忘れやすい動物であり、忘れることがたいせつなこともあるけれど、
忘れてはならないことがある。
歴史を学ぶのは簡単にいえば、忘れてはいけない「生なましい記憶」を過去から
引きだして頭、心に呼びおこし、「生なましい記憶」を教訓とし、
より長く生きのびる、生存を可能にするためのものだと思った。
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「あいまい」から、いい意味で私が思うのは、「両忘」という禅語。
「白か黒、どっちかはっきりする」のではなく、物事には間があるということ。
(色なら、グラデーション、白と黒との境にさまざまな灰色が)
人生みたいだ。
でも、戦争をするかしないかに「どっちでもいい」という「あいまい」な姿勢は、
許されない・認められないという次元、価値の問題ではなく、
そもそもあり得ない。
するのか、しないのか。
(二者択一、きわめて単純。
いかなる戦争も大義名分を掲げて行われる。
その大義が事実だとしても、戦争というものは、本質も実質も例外なしに人殺し。
たくさん人を殺した方が《ゲームではないが》勝ち。
殺された方が負け)