カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.4.7 死について

『死についてあらゆる年齢・職業の人たち63人が堰を切ったように語った』  

スタッズ・ターケル 著という本を読んだ。

 


死がせまった歳になったからではなく、若いころは(誰でもそうかもしれないが)

個人の「生と死」、それが営まれる社会というものが気になった。

(私は16,7の頃、死を怖がるというよりも、それが何なのかがわからないことが不安で、

自分だけの「信仰」《寄りすがれる存在、神仏のようなものに祈る》を持ったことがあった)

本でも題名に「死」とあれば、飛びつきたくなる。

 

「死」は、頭や心の問題である前に、頭や心をふくむ身体ぜんたいの問題、

事柄だといえそうな気がする。

死についての本を読むとき、「死」がその場で頭や心をふくめ)身体全体に

迫ってくる。身体全体で感じられてくるのだ。

また、内容が同じ、似た本でも、読む側にとってはその時その場は二度とは

訪れない(同じ本をくり返して読むことはあっても)。まさに「死」と同じ。

その本との出あいも「一期一会」。

 

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心に響いた言葉を三つだけ。

 

①「おれにいわせりゃ、人生はリレー競争みたいなもんだ。

疲れて走れなくなった頃に、自分より若くて強いやつにバトンを渡す

②「あの世ってのは、あると思う。…

ひとつわからないのは、なんで若い連中が死ななきゃならないのかってこと

③「(生きているいろんな人のなかに少しずつ、わたしという人間のかけらが存在して

 

      


人生をリレーにたとえるのは聞いたことがあるけれど、あらためて

疲れて走れなくなった頃に、自分より若くて強いやつにバトンを渡す」という

言いかたが胸にひびいた。

よく「死んだらあの世」といわれる。

そもそも「あの世」があるかないのか、「あの世」は極楽なのかそうでないのかは

死んだことないのでわからないが、「自分より若くて強いやつにバトンを渡す

ことが「あの世にいく」ことなのかなと今、すなおに思えた。

 

病気や事故、ましてや自殺で若い人が死んだと聞くと、

死んだのが老人、しかも寿命がつきたのだろう、大往生といえるものとは

全然ちがった感情が押しよせる。

まさしく、「なんで若い連中が死ななきゃならないのかってこと」だ。

長寿を愛でる感情よりも、短命を悲しむ惜しむ感情が圧倒的につよく湧きでる。

 

死にゆく人がよくいう。

「ほんのたまでいいから、ワシのこと思いだしてな」

思いださなくても、あんたという人のかけらは誰かのなかに、

ちゃんと残っています。

(長くブログしていると、いろんな方との思いでがあり、とても懐かしい。

確実に、その方は自分のなかに生きている)

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この前、あるテレビドラマを見ていて、「『死』をふくんでの『生』」という言葉

セリフが強く心に響いた。

 

もうじき死ぬとわかっていても、あと少しの命と自覚していても、

死の瞬間までが生なので、実際に死ぬまでは生きているので

(諦めることなく)しっかりと生き、きちんと死のうということ。

(「きちんと死ぬ」という言葉。いいです)

 

言葉や言いかたは違っても、同じような意味のことはいろいろと聞いた。

なんど聞いても、ホントそうだと思う。

 

「なんど聞いても、ホントそうだ」と思っても、だらしなく、いい加減な私は

忘れやすいので、生きているうちにはなんども聞く必要がある。

聞いて、聞いて、心を新たにしなければならない。

そうして、一度きりの死にそなえたい。

(死んだら「なんども聞く」というわけにはいかないのだ。

《もちろん、突然の事故のように、死はわからないうちにやってくるかもしれないが》

 

 

 

 

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                           ちりとてちん

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