『死について-あらゆる年齢・職業の人たち63人が堰を切ったように語った』
スタッズ・ターケル 著という本を読んだ。
死がせまった歳になったからではなく、若いころは(誰でもそうかもしれないが)
個人の「生と死」、それが営まれる社会というものが気になった。
(私は16,7の頃、死を怖がるというよりも、それが何なのかがわからないことが不安で、
自分だけの「信仰」《寄りすがれる存在、神仏のようなものに祈る》を持ったことがあった)
本でも題名に「死」とあれば、飛びつきたくなる。
「死」は、頭や心の問題である前に、頭や心をふくむ身体ぜんたいの問題、
事柄だといえそうな気がする。
死についての本を読むとき、「死」がその場で(頭や心をふくめ)身体全体に
迫ってくる。身体全体で感じられてくるのだ。
また、内容が同じ、似た本でも、読む側にとってはその時その場は二度とは
訪れない(同じ本をくり返して読むことはあっても)。まさに「死」と同じ。
その本との出あいも「一期一会」。
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心に響いた言葉を三つだけ。
①「おれにいわせりゃ、人生はリレー競争みたいなもんだ。
疲れて走れなくなった頃に、自分より若くて強いやつにバトンを渡す」
②「あの世ってのは、あると思う。…
ひとつわからないのは、なんで若い連中が死ななきゃならないのかってこと」
③「(生きている)いろんな人のなかに少しずつ、わたしという人間のかけらが存在している」
人生をリレーにたとえるのは聞いたことがあるけれど、あらためて
「疲れて走れなくなった頃に、自分より若くて強いやつにバトンを渡す」という
言いかたが胸にひびいた。
よく「死んだらあの世」といわれる。
そもそも「あの世」があるかないのか、「あの世」は極楽なのかそうでないのかは
死んだことないのでわからないが、「自分より若くて強いやつにバトンを渡す」
ことが「あの世にいく」ことなのかなと今、すなおに思えた。
病気や事故、ましてや自殺で若い人が死んだと聞くと、
死んだのが老人、しかも寿命がつきたのだろう、大往生といえるものとは
全然ちがった感情が押しよせる。
まさしく、「なんで若い連中が死ななきゃならないのかってこと」だ。
長寿を愛でる感情よりも、短命を悲しむ惜しむ感情が圧倒的につよく湧きでる。
死にゆく人がよくいう。
「ほんのたまでいいから、ワシのこと思いだしてな」
思いださなくても、あんたという人のかけらは誰かのなかに、
ちゃんと残っています。
(長くブログしていると、いろんな方との思いでがあり、とても懐かしい。
確実に、その方は自分のなかに生きている)
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この前、あるテレビドラマを見ていて、「『死』をふくんでの『生』」という言葉
セリフが強く心に響いた。
もうじき死ぬとわかっていても、あと少しの命と自覚していても、
死の瞬間までが生なので、実際に死ぬまでは生きているので
(諦めることなく)しっかりと生き、きちんと死のうということ。
(「きちんと死ぬ」という言葉。いいです)
言葉や言いかたは違っても、同じような意味のことはいろいろと聞いた。
なんど聞いても、ホントそうだと思う。
「なんど聞いても、ホントそうだ」と思っても、だらしなく、いい加減な私は
忘れやすいので、生きているうちにはなんども聞く必要がある。
聞いて、聞いて、心を新たにしなければならない。
そうして、一度きりの死にそなえたい。
(死んだら「なんども聞く」というわけにはいかないのだ。
《もちろん、突然の事故のように、死はわからないうちにやってくるかもしれないが》)