妻籠宿への旅を無事おえて、「ほんとうによかったね」と言い合った。
(「合った」は半分ホント、半分はウソ。そう口にしたのは私だけでツレはうなずいただけ)
今年の桜はとても早く、三月の終わりなのに、しかも木曽は山ぶかい土地なのに
見事に開いていた。
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(木曽路は、古い民家や少し離れた野原、山の麓に一本のシダレ桜がよく見られた。
しかし、ソメイヨシノの並木はほとんどなかった。
妻籠宿もそうだった。桜だけでなくユキヤナギ、レンギョウ、コブシ、モクレン、花桃などが
いっせいに咲き、当日は快晴だったので真っ青な空を背景に、「春が来た」という感じが強くした。
ツレに気を向けていなければならないのに、桜に見とれ、写真撮影に気をとられた。
宿の温泉では湯に気をとられ、早く上がることを忘れてついつい長湯した。
《自分を「やるときはやる!」人間と思っていたが、やっぱり詰めが甘い》
考えてみれば、深刻な症状にもかかわらずしばらく様子見という態度にツレの真意があらわれていた。
「旅の実行」=「ツレ《この場合は私》の楽しみの実現」であり、彼女自身も楽しむことではなかった
に違いない。
たとえば写真撮影。私はもともと「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で、撮る枚数ではツレに完勝しても
質では負ける。しかし、その質を確かめ、比べようもないほど彼女は写していなかったのだ。
楽しさにかまけ、忘れてシャッターを押さなかったのではなく、花の美しさに感動、楽しむという
こと自体が、そもそもなかった、できなかったのだ。
この旅では「信州割」という旅支援サービスがあった。けれど、スマホなしでは利用できないらしい。
操作できなくなったツレ、操作したこともない私。「宝の持ち腐れ」になっても…とあきらめかけた
が、利用先の店の人の親切《操作をしてもらう》に操作を頼むことにした。
《イヤな顔されることなく頼みを聞いてくださり、嬉しかった》)
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記事の最初に、「『ほんとうによかったね』と言い合った」と書いた。
たとえ一方的な私だけの気もちにしても、その気もちを表わさざるをえない、
表わすことが、ツレへの気もちに応える、尊重することだと信じている。
(しかし、それは旅を無事に終えることができたから言えること。
無事でなかったとしたら…、「それはその時のこと」
そもそも、そういう覚悟を持てたからこそ、旅に出たのだった)
旅から帰った翌日の晩、急に入院することになった。