『はじめての哲学的思考』 苫野一徳・著という本を読んだ。
「哲学」的な考え方、発想については前にも同じような本を読んで記事を書いた
ことある。
(→2月7日「そもそも」)
それとはまた別な観点、書き方の本で、とてもおもしろかった。
私としては二つのことに強く惹かれた。
① 「信念の対立」
② 「『意味の世界』と『事実の世界』」
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① 「信念の対立」
「〈信念の対立をどう乗り越えるか〉
どちらの信念が絶対に正しいかと考えるのをまずやめること…
お互いの信念がどのような欲望や関心から編み上げられたのかを互いによく吟味…
僕たちの信念は実は欲望の別名…
信念の次元で議論し合うかぎり、僕たちは互いに一歩も引けなくなることがある…」
「僕たちの信念は実は欲望の別名」とあるが、本には「自由」とともに「欲望」
という言葉がとても多く出てきた。
(「欲望」は本全体をつらぬくキーワードとなっていた)
人間も生きもの。
自分自身の生存維持のために食べ、種の生存がいつまでも続くように子どもを生み
育てることが命の基本、前提。
その生物レベルでは「欲望」とは呼ばず「本能」「欲求」なのだろうが、
人間だけは他の生きものと違い、文化・文明を持った。
そのことにより、さまざまな多くの「欲望」を開発し、「自由」を獲得した。
そして、人間だけが「信念」を持った。
著者は「信念は実は欲望の別名」と述べる。
自分の「信念」をそんな風に考えた、思ったこと一度もなかったので唖然とした。
(けれど、深くうなずいた)
その言葉を使うかどうかはどうでもいいけれど、「哲学的思考」というのが、
「そもそも」と根源に立ち返って物事をとらえる姿勢・態度ならば、
確かに「信念は実は欲望の別名」といってよいと思う。
(「欲望」といえば動物的、俗な感じがするので、高尚な感じをねらって格好をつけ、
「信念」と呼んでいるだけともいえる)
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この部分はとても強く考えさせられた。
(というか、反省した)
私は自分の「信念」のようなもの、ときには「理想」も書くけれど、
どちらも「欲望の別名」といえる。
あらためてそれを自覚することになった。
最後に、「信念の次元で議論し合うかぎり、僕たちは互いに一歩も引けなくなる」
とある。
何かを決するとき、急ぐ必要がない物事でも、迅速・スマートに結論・結果に
到達することがよいという雰囲気、ムードが漂っているいまの日本では、私たちは
「〇か✖、どっちにする?」と二者択一を選びやすい。
「互いに一歩も引けなくなる」までの論議、対立そのものが打ち切られ、
自分の考え「信念」なんてどうでもいいや、とどちらかが諦める。
そうではなく、二者択一ではない、第三の答え、案、解決への道を模索するために
「欲望の次元での対話」という、泥くさく生なましいけれど、
本音の次元での対話の必要が述べられ、「信念の対立」はしめ括られていた。
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② 「『意味の世界』と『事実の世界』」
「〈「意味の世界」と「事実の世界」〉
僕らは「意味の世界」をこそ生きている…
いわゆる”事実”は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、
決して”事実”として認識されることがない」
「意味」というのは「価値」と言い換えてもいいと思う。
「事実」というのは実際、現実に存在する(した)こと。
客観的に存在しても、自分に(直接的であれ間接的であれ)「意味」や「価値」が感じ
られなければ、その「事実」は存在しないのと同じこと。
存在する事実がどんな物事でも。
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よく「人は見たいように見る「見ようとする物事しか見ない」(というより
「見えない」)」といわれる。
自分にとって「意味」や「価値」があるものは、興味や関心が向く物事ばかり。
誰かから何かを聞かされても、「それがどうした?」「関係ねぇ―!」と思う。
そういうとき一歩立ち止まり、本当にそうなのか、スルーしていいだけのものか
よく考えてみなければならない。
(逆に、よく考えればどうでもいいようなことにとらわれている)
それが「哲学的思考」というものなんだろう。