カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.7.5 『断片的なものの社会学』③

今日は最後。

再度、初めに引用した、本の最初の言葉を書いておきます。

 

人生は、断片的なものが集まってできている

 

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、

世界にひとつしかないものだった。

そして世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっている

 

     

ーーーーー

ここからは今日の引用です。

生活史のインタビューでいつも感銘を受けるのは、目の前にいるほかでもない「このひと」のなかを

自分のものとは違う長い時間が流れてきた、という事実である。…

私たちのなかでそれぞれが孤独であること、そしてそこにそれぞれの時間が流れていること、

そしてその時間こそが私たちなのであるということを、静かに分かち合うことができる

 

自分を差し出す

何にもなれずにただ時間が過ぎていくような、そういう人生である。

「裏切られた…」「こんなはずじゃなかった」

だが、いつも私の頭の片隅にあるのは、私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえない

どこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。…

かけがえのない自分とか、そういうきれい事を聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、

そもそも自分自身というものが、ほんとうにくだらない、たいしたことのない、何も特別な価値など

ないようなものであることを、これまでの人生のなかで嫌というほど思い知っているからかもしれない

くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それがじんせいだよ

そもそも、私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである。

私たちは、ただ無意味な偶然で、この時代のこの国のこの街のこの私に生まれついてしまったのだ。

あとはもう、このまま死ぬしかない

 

     

ーーーーーーーーーー

初めの、「目の前にいるほかでもない「このひと」のなかを、自分のものとは

違う長い時間が流れてきた、という事実」。

 

とても強く胸に響いた。

人によりそれぞれの見方、尺度、価値観・世界観があるという当然の事実を忘れ、

自分のメガネでその人を見る。

そのメガネは自分だけの、焦点が自分に偏ったものだということを忘れないように

したいと、つくづく思った。

(こんな文章に逢ってホントよかった)

 

     

ーーーーー

後の引用にも深くうなずいたけど、私個人は「何」かになろうと強い意志をもっ

努力したという思いもないので、裏切られた…」「こんなはずじゃなかった

という思いはない。

 

私は自分を「何も特別な価値などない」人間とは思っているけけど、

くだらない、たいしたことのない」人生を過ごしている(過ごした)とは全然

思わないし、「特別な価値」の有無はわからないけど、人は誰ひとりとして

くだらない、たいしたことのない」を過ごしている(過ごした)とは思わない。

 

人が生きるということ(あるいは死ぬということ)は、それだけで

自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、

誰かにとって意味があるのかもしれない

 

ただ無意味な偶然で、この時代のこの国の…この私に生まれついてしまった」が

私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである」とは

思わない。

ーーーーー

前と後、二つの文章を合わせて読むと、

人生は、断片的なものが集まってできている

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、

世界にひとつしかないものだった。

そして世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっている

という、この本の初めの言葉に還る気がした。

 

     

     


人も、その人の生も、それだけ、そこだけのもの、ということ。

 

それは「かけがえのない自分とか、そういうきれい事」では決してないこと。

 

くだらない、たいしたことのない、何も特別な価値などない」は言葉、言い方、

主観の問題であり、客観的事実としては

世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっている」のが自分

という存在。

 

 

 

                  f:id:kame710:20171029114701j:plain

                       ちりとてちん

かたつむり 日月遠き 眠りたる  木下夕爾   

 

<