『なにも願わない手を合わせる』 藤原新也・著 を読んだ。
藤原新也さんは人々が暮らし、生活する場所なら何でも題材にされる写真家。
何かを自分の心が感じれば、シャッターを押す。
本は、著者が家族(とくにお兄さん)の死を弔って四国八十八寺巡礼の旅をされた
とき感じ、思い、考えたことを著したもの。
いろいろな話があった。
どの話も、人が生きるということを温かいまなざしで見つめられたもの。
(いろいろあったなかで、私にいちばん印象深かった「童顔」と、本題にもなっている「なにも…」
についての感想のみ書きます)
「〈童顔〉
この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きて行くことはできない…
〈なにも願わない手を合わせる〉
祈りというものは、この”○○のために祈る”という姿からは逃れようがないのであり、
その祈りの後ろ姿に接するとき、そこに尊さを感じながら、人間というものの業の深さを
感じざるをえない。…
なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる。…
海のような自分になりたい。」
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「童顔」という話は、ある寺の境内にあった(本の表紙の写真)地蔵菩薩のあまりに
哀しそうな(といっても単純に哀しいのではなさそう)複雑な表情に心を動かされたもの
お地蔵さまの顔、姿を静かに見つめているといろいろなことが思われた。
その一つが「罪」。
「この世に生を授かった…罪を重ねずして…」
人間も生き物である限り、他の生き物のいのちを頂かなければ生きてはいけない。
他の生き物のいのちを奪って食わねばいきてはゆけない。
(それを「罪」というのなら、生きていることそのものが罪。
キリスト教のいう「原罪」とはこういうこともいうのだろうか)
このお地蔵さまは童顔だけど菩薩さまであり、修行中の身。
だから、童顔のようでも単純な童顔ではないのだろうか。
(一瞬、「阿修羅」の少年のような顔を想った)
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「手を合わせる」とき私も必ず願っている。「○○のために」と祈っている。
(ふだんは家族の健康、平穏を願い祈っているけれど、今日8月6日は9日の長崎とともに広島に
人類初の原子爆弾が投下された。今日は「平和のために」手を合わせる)
ずっと前、ひろさちやさんという仏教徒(本業は仏教の学者)が、祈りの対象が自分や
家族というのもいいが、それに祈願の中身が家内安全、健康とか幸福もいいけれど
祈願というものは「拡げれば効果が薄くなる」というみみっちいものじゃないので
人類全体(いや人類だけではなくすべての生き物)、地球全部の平穏無事、平和を祈る
のがいいという意味のことを、ある本に書かれていた。
(それから私は家族の平穏無事と《ときどき忘れるけど》地球平和、どちらも祈願し手を合わせる。
純真に「なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる」のは私は業が深すぎて出来ない。
《著者も自分の身の周りだけではなく人類、地球のようなことを思われたが、しっくりせず
「なんだかなぁー」という気がされたそうだ》)
遍路の旅で、あたり前のようにしていた「祈り」にとらわれ、こだわり、
「人間というものの業の深さ」のようなものにまで深く悩み考えたあげく、
藤原さんは「なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる」ことに気づき、
自然にそうできる「海のような自分になりたい」と思った。
やれ打な 蠅が手をすり 足をする 小林一茶