カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.8.6 なにも願わない手を合わせる

『なにも願わない手を合わせる』  藤原新也・著 を読んだ。

 


藤原新也さんは
人々が暮らし、生活する場所なら何でも題材にされる写真家。

何かを自分の心が感じれば、シャッターを押す。

 

本は、著者が家族(とくにお兄さん)の死を弔って四国八十八寺巡礼の旅をされた

とき感じ、思い、考えたことを著したもの。

いろいろな話があった。

どの話も、人が生きるということを温かいまなざしで見つめられたもの。

(いろいろあったなかで、私にいちばん印象深かった「童顔」と、本題にもなっている「なにも…」

についての感想のみ書きます

 

童顔〉

この世に生を授かったすべての生き物は、を重ねずして生きて行くことはできない

 

なにも願わない手を合わせる

祈りというものは、この”○○のために祈る”という姿からは逃れようがないのであり、

その祈りの後ろ姿に接するとき、そこに尊さを感じながら、人間というもののの深さを

感じざるをえない。…

なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる。…

海のような自分になりたい。

 

    


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「童顔」という話は、ある寺の境内にあった(本の表紙の写真)地蔵菩薩のあまりに

哀しそうな(といっても単純に哀しいのではなさそう)複雑な表情に心を動かされたもの

 

お地蔵さまの顔、姿を静かに見つめているといろいろなことが思われた。

その一つが「」。

この世に生を授かった…を重ねずして…

 

人間も生き物である限り、他の生き物のいのちを頂かなければ生きてはいけない。

他の生き物のいのちを奪って食わねばいきてはゆけない

(それを「」というのなら、生きていることそのものが

キリスト教のいう「原罪」とはこういうこともいうのだろうか)

 

このお地蔵さまは童顔だけど菩薩さまであり、修行中の身

だから、童顔のようでも単純な童顔ではないのだろうか。

(一瞬、「阿修羅」の少年のような顔を想った)

 

     


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手を合わせる」とき私も必ず願っている。「○○のために」と祈っている。

(ふだんは家族の健康、平穏を願い祈っているけれど、今日8月6日は9日の長崎とともに広島に

人類初の原子爆弾が投下された。今日は「平和のために手を合わせる

 

ずっと前、ひろさちやさんという仏教徒(本業は仏教の学者)が、祈りの対象が自分や

家族というのもいいが、それに祈願の中身が家内安全、健康とか幸福もいいけれど

祈願というものは「拡げれば効果が薄くなる」というみみっちいものじゃないので

人類全体(いや人類だけではなくすべての生き物)、地球全部の平穏無事、平和を祈る

のがいいという意味のことを、ある本に書かれていた。

(それから私は家族の平穏無事と《ときどき忘れるけど》地球平和、どちらも祈願し手を合わせる

純真に「なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる」のは私はが深すぎて出来ない。

《著者も自分の身の周りだけではなく人類、地球のようなことを思われたが、しっくりせず

「なんだかなぁー」という気がされたそうだ》)

 

遍路の旅で、あたり前のようにしていた「祈り」にとらわれ、こだわり、

人間というもののの深さ」のようなものにまで深く悩み考えたあげく、

藤原さんはなにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる」ことに気づき、

自然にそうできる「海のような自分になりたい」と思った。

 

 

 

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                          ちりとてちん

やれ打な 蠅が手をすり 足をする  小林一茶

 

 

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