心に残った四つの話だけを紹介し、感想を書きます。
①「〈グーグルが予測できない言葉で検索〉
(私たちは)環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。…
ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない
→個人はパラメータの集合でしかない
それでも、多くの人は、たったいちどの人生を、かけがえのないものとして生きたいと願っている…
環境から統計的に予測されたるだけの人生なんてうんざり…
→外側から見れば単なる環境の産物にすぎないのに、内側から見れば「「かけがえのない自分」」
②「〈「弱い絆」→「偶然」の大切さ〉」
③「〈観光客になる 福島〉
「軽薄で無責任な「観光客としての生き方」
ひとは観光客になると、ふだんは決して行かないようなところに行って、
ふだんは決して出会わないひとに出会う。…
観光客は無責任です。けれど、無責任だからこそできることがある。…
無責任を許容しないと拡がらない情報もある。→「弱い絆」」
④「〈言葉より「モノ」にこだわりたい〉
言葉の「メタ化」機能がもつ厄介さ
言葉を使うと、人間はいくらでも議論を「メタ化」することができます。…
言葉で真実を探さない…
言葉だけでは争いは止まらない。…
「国民としてわかりあえないこと」よりも「個人としてわかりあえること」を優先して
制度設計するほうが賢い
…
言葉の解釈は現前たる「モノ」には及ばない…けれども解釈の力はモノには及ばない。
歴史を残すには、そういうモノを残すのがいちばん…
記憶の書き換えに抵抗するためにモノを残す
…
ぼくはじつは、「記憶の継承」という言葉は好きではありません。
記憶は書き換え可能だから」
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① 〈グーグルが予測できない言葉で検索〉
「かけがえのない自分」とはいっても、その実、私たちは「環境に規定され」て、
「考えること、思いつくこと、欲望することは、…予測可能なことでしかない」。
つまり、どこでも代理がきく凡人、並みの人間でしかありえない。
ほんとうにそう思う。
(グーグルは、あらゆるデータを持っているから、だいたいの人が「考え…欲望することは、…予測」
できる現代の「神さま」といえる。
それでもパソコン、いやグーグルに向かい〈グーグルが予測できない言葉〉がないか考えてみたけど
なかった。検索欄に向かうと並みの言葉しか浮かばなかった。
そうではあっても、人はみんな一度きり生きて死ぬ「かけがえのない自分」。
そうだ! 神さまは不老不死だから「かけがえのない」存在ではないのだ)
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② 〈「弱い絆」→「偶然」の大切さ〉
「弱い絆」
とても考えさせられる。
(「絆」というと「強い絆で結ばれる」という美しいイメージが浮かぶ。それはそれでいが、
「弱い絆」も悪くないと思った。
考えれば「絆」《人との繋がり》というものは心での受けとめ方、感じ方、つまり主観的なもの
だから、客観的に「強い・弱い」といえるものではない。
強いと感じようが弱いと感じようが、絆という、その物事との出会い、きっかけ《「偶然」》を
大切にしたとき生まれる繋がり《縁》は、個人にとっては何にも代えがたい貴重なものだと思う)
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③ 〈観光客になる 福島〉
(福島原発廃墟地の観光地化のことは前の記事で書いたのでここでは略します)
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④ 〈言葉より「モノ」にこだわりたい〉
・「言葉の「メタ化」機能がもつ厄介さ」
・「言葉で真実を探さない」
・「言葉の解釈は現前たる「モノ」には及ばない…
・歴史を残すには、そういうモノを残すのがいちばん…
・記憶の書き換えに抵抗するためにモノを残す
・「記憶は書き換え可能」
「言葉の「メタ化」機能がもつ厄介さ」
「言葉の「メタ化」」とは、手っ取り早くいえば、「ものは言い様《よう》」
であり、どうとでも言えるということだと私は思う。
言い方を工夫し、言い様を変えれば、「言葉遊び」となって延々と続く。
(よくいう「煙《けむ》に巻く」は「言葉の「メタ化」」じゃないけれど、言い合い、議論で相手を
丸め込める、困惑させる点ではよく似ている)
「記憶の書き換えに抵抗するためにモノを残す」
(「記憶違い」や「見《聞》ちがい」ということは誰にでもよくある。
忘れてはならないことをメモしたり、日記に残すことも《ブログに何かを書くのも》
立派な「モノを残す」)
月よりも 遠くに椅子を 置きにける 夏井いつき