今日は残りの三話。
「〈道徳の手がかり〉
(これも話の具体的な内容はほとんど忘れており、メモしたとこだけ紹介します)
高度成長期で育った自分の来し方をふり返り、著者はその特徴を四つ挙げてみる。
①生活が物質的によくなった ②すべての欲望が肯定されるようになった ③カジュアル化
④グローバル化…
なかでも過去の文化的規制をかなぐり捨てて、ばく進してきた感じがするのは欲望の肯定だ。
「金を儲けたい」「もてたい」「有名になりたい」…昔ならば口にするのもはばかられるようなこと…
「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問いにさえ向き合わなければならな(くなった)…
(リーマンショックという米国経済危機を、フランスの学者エマニュエル・トッドは言う)
「今回の危機で表に出ているのは金融問題だが、背後には経済以外の要因が横たわっている。
社会全体を考えずに自分のことばかり大事にする自己愛、自己陶酔の意識だ。…
『禁じることを禁じる(自由がすべて)』だった。
こんな考え方が経済の世界にも広がっていった結果が現状だ。…
あんたたち(私たち普通の人々)が原因なのだ。自己中心的で、
公共心のないあんたにも責任の一端はあるんだ」」
「〈方法としての現場〉
(著者はその人の生活の場、現場に強くこだわる。だから「私の話を聞いてください」と言われると
必ず自分からその人を訪ねる《自分の方に来てもらうのではない》。あるとき、
「靴磨きを50年間続けた人を取材していて、彼が現場《雑踏》で居眠りを始めたのを見て」思った)
一番底辺から世の中を転覆したいという怨念といった観念的なものではなかった。
彼が得たのはくつろげる場所だった。…
(取材相手は「靴磨きを50年間続けた人」なので、社会への恨みつらみ、「世の中を転覆したい
という怨念」を聞かされるかと思いきや、聴き取り取材の場所《50年間の靴磨き場所》である
「現場で居眠りを始めた」のを見て著者はしみじみと思ったのだった)」
「〈限界哲学〉
(著者は「限界芸術」《教科書に載っているクラシックなど「正統」的な音楽や、○○派の絵画などの
狭い意味の芸術ではなく、音楽なら「流行歌」、絵なら「落書き」など、「人々の日常生活の
広くて厚い視野からできあがっている」もの》を深く評価し、それは哲学にも当てはまると言う。
それが「限界哲学」)
哲学というと…論理があり体系がなければならない、それに較べて「限界哲学」には…人々の暮らしに
密着したところで作用している。…
その考えだけを取り出して論じるよりも、その考えが生きている状況ぐるみで見たときに、
その価値がわかる。状況によって良くも悪しくもなる。…
「隣の芝生(は青い)」も「自分はまだまし」も「プラス思考」(も、みんな「処世術」という名の
「限界哲学」)…
「限界哲学」では役に立つということが第一義だ。正しいとか間違っているとかいうことに
重要な意味はない。…
(ここでも哲学者鶴見俊輔の話が出てくる。彼の言葉)
「自分の精神の動力になっていたものは、スピノザでもカントでもヘーゲルでもなく
『俺は河原の枯れススキ』という思想であった」…
(そう言う鶴見俊輔は、戦争に駆り出されたとき)
ひとつのことを決意する。命令されても人は殺さない。その前に自分が死ぬ。
そう決めて、いつも劇薬を身につけるようにした。
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〈道徳の手がかり〉
「昔ならば口にするのもはばかられるような」「欲望が肯定」される現代社会。
(いいとか悪いとかの価値ではなく、事実の問題。ともかく時代が昔とは違う。
私は著者と同じような古い世代だし、高度成長期も経験したからよくわかる。
私も同世代が普通に望むことくらいは望んだが、「「金を儲けたい」「もてたい」「有名になりたい」
口にするのもはばかられるようなこと」までは《欲望が低いということではなく》望まなかった。
それを正々堂々と口にする者はごくごく一部《少なくとも私は知らない》にしか過ぎなかった。
もちろん、「「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問い」が発せられ、社会的な問題になる
ことはなかった。
時代の支配的な空気が知らず知らずのうちに多くの普通の人々に影響を及ぼす。
「小欲知足」で生きようとしても、自分の生きている時代、社会が欲望を刺激をかき立てる。
甘い投資話に手を出したり、やさしい言葉に騙されるなどの詐欺に遭う老人がいるけれど、
その人が金欲や色欲が強いというわけではないと思う。
己の欲望のためなら他人を騙す、詐欺が一般的な社会現象になった現代の日本。
《こう多くてはいちいち反応するのが面倒くさくて「またか…」で終わり、悲しいとか情けない
という感情も薄まってくる》
初めの「オレオレ」では、被害者の家族を思う心情につけこんだ卑劣なものだった。
が、詐欺の程度は《あえて最近の「闇バイト」と呼ばれる阿漕なやり方と比較すれば》天と地ほどの
差を感じさせる《「オレオレ」では金額も親や祖父さん祖母さんが出せるほどだった。
いまは被害者を殺すこともあり詐欺ではなく強盗に変質した》。
ネット、SNSと欲望を刺激するための道具に現代は事欠かない)
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〈方法としての現場〉
「現場百回」という刑事ドラマでよく言われるセリフを思い出した。
「現場で居眠りを始めた」その人を目にして、雑踏であっても「靴磨きを50年間
続けた」その場所(現場)こそ、「くつろげる場所だった」。
そのことに著者は深い感銘を受けたという。
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〈限界哲学〉
とてもいい話だった。
「限界芸術」は、「人々の日常生活の広くて厚い視野からできあがっている」
物事に、人生の価値のようなものを見いだす、見つける。
〈限界哲学〉は、「役に立つということが第一義だ。正しいとか間違っている
とかいうことに重要な意味はない」
(鶴見俊輔さんの話を以前《2020.8.11の「家族」という拙記事》書いたことがあります。
こういう話をされる鶴見俊輔という哲学者にとても強く共感したことをいまも鮮やかに覚えています。
【引用】『いま家族とは』より
「 この場合家族というのは、夫婦としても、驚くべき仲のいい夫婦なんですが、
それでもお互いに見知らぬものとして終わる。…
自分が、やがては家族にとっても「見知らぬ人」となる。
そして「物」となって終わる。死体は物ですからね。
物になれば、宇宙のさまざまなものと一体になるので、
そんなに寂しいわけないんですよ。存在との一体を回復するわけですね。
どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。
赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。
たいへんに有名です。家のなかで無名の人っていないです。
それは、たいへんな満足感を与えるんです。…
人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。
そのときの「有名」が自分にとって大切なもので、
この財産は大切にしようと思うことが重要なんじゃないですか。
最後は、お互いに見知らぬ人になり、そのときには家族のなかでさえ無名人です。
やがて物になる。人でさえない。そのことを覚悟すればいいんです。」)
日のくれと 子供が言ひて 秋の暮 高浜虚子