『苦しくて切ないすべての人たちへ』 南 直哉・著
(グーグル画像より)
いまの自分は幸い「苦しくて切ない」ことはないけれど、いつそうなる
かもしれない。
著者南さんは恐山のお坊さん。
(まだ中学生のころから自分が生きているということ、自分の存在にひどく不安を感じ、
それを問うような少年だった。その答えを求めて《家は寺ではなかったけれど》出家し、
強く感じたことところだけ紹介し、感想を書きます。
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「〈生きているだけで大仕事〉
問答無用でこの世界に投げ出され、一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる。
まさに不本意なまま、予め人生は始まってしまっている。
…
〈無駄な時間は大切だ〉
何かの役に立つために生まれてきたのでもない。生まれてきたら、役に立つこともあるにすぎない。
ならば、最初に「生きなければならない」確かな意味も理由もあるわけがない。…
無駄で当たり前だと承知の上で、その人生を持ちこたえるために、あえて意味を創作する…
無駄を受け容れて、無駄の上に意味をおいて、謙虚に考える
…
〈適当に生きよう〉
「仕方がない」も決心のうち
「仕方がない」は、「過去」と「正解」を捨てる決意なのだ。
我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めたのだ。
ならば、これからも「仕方なく」生きていけばよいし、
「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニックだ。」
「〈命の種-「あなたがそこにいてくれるだけでいい」〉
理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在が、
「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、…自分以外の誰かに大切にされたからである。…
「命の尊さ」が理解できるのは、「あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい」
と断言する者がいて、言われた人がそれを実感できた時だけである。
それこそが「命の種」なのだ。
…
したがって、我々(子)は自分の存在に何ら責任は無い。責任は一方的に「親」にある。
その自覚と、責任を負う覚悟が無ければ、人は「親」になってはいけない。…
社会、あるいは国家は、メンバーの世代的「再生産」を、「家族」「親」に委託している。
この「再生産」が無ければ、社会も国家も成立しないのだから、
社会や国家が「家族」「親」に対して、「再生産」に協力し、これを保護するのは、
無条件で第一義的な責務である。…
「子育て支援」などと、尊大で悠長な言い草で誤魔化すような話ではない」
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① 「生きているだけで大仕事」
② 「無駄で当たり前だと承知の上で」
③ 「「仕方がない」も決心のうち」
④ 「「仕方なく」生き始めた」
この四つの言葉、言い回しが心に響いた。
どれもきっちり意識しないままだけど、普段から思い実践していること。
でもこうして言葉にされると改めてしっかり意識され、うなずく。
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① 「生きているだけで大仕事」
ある程度の苦難を経験したり長く生きれば、こんな感慨を持ちやすいと思う。
「生きているだけで大仕事」の自分を褒めるのは大事だ。
しかし、経験という過去のたいへんさをふり返ってこんな「感慨」を持つことも
大事だけど、それを未来に向けての「心構え」という姿勢を持つのも大事だ。
その人が主人公の人生という舞台では、起こる、出あう物事はわからない。
そして、その人は自分だけのさまざまな反応をし、行動をとる。
第三者の誰にも見えてわかる物事はそうだけど、その人生舞台はその人だけのもの
なので、本人の心、頭、要するに主観(これこそ自分の中心、核)を含めた全体像は、
けっして他人には(理解してくれているはずの親愛の相手でさえ)見えず、わからない。
あたり前のことだ。
お互いがお互いに代わって生きることはけっしてできないのだ。
あーぁ、「生きているだけで大仕事」
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② 「無駄で当たり前だと承知の上で」
そもそも生まれてきたこと自体が奇跡というか、不思議そのものなのだと思った
ほうが、そう思わないより断然、生きやすくなる。
大事なのは生きやすい、生きるのが楽しい、幸せだと感じることだと思う。
(私はよく「偶然」という言葉を使うけれど、そのとき反対の「必然」を想定しているわけでは
ありません《「偶然」は「偶然」、「必然」は「必然」。二項対立として捉えないようにしている》
「無駄」ということも、「無駄ではない」ことの反対ですが、「無駄」も「無駄ではない」もない
という捉え方もあると思うのです)
人生は「無駄で当たり前だと承知の上で」生きてみると、生きやすい)
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③ 「「仕方がない」も決心のうち」
④ 「「仕方なく」生き始めた」
「仕方がない」という決心は「諦め」であるけれども「明らめ」でもあります。
(ネットのAIによる概要によれば、「仏教用語で「諦」という言葉は「真理」を意味し、
「諦める」とは「明らかに観る」「現実をありのまま観察する」ことを意味します」)
生きているということは、「いま現在」という時間と「ここ」という空間(場所)
しかない「仕方がない」こと。
また、「我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めた」。
生の現実(現在)も、スタート(発生 誕生)も「仕方がない」ものなのだ。
なので、「「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニック」
石投げて 心つながる 秋の水 木下夕爾