カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.11.5 生きているだけで大仕事

『苦しくて切ないすべての人たちへ』  南 直哉・著 

 

グーグル画像より)

 

いまの自分は幸い「苦しくて切ない」ことはないけれど、いつそうなる

かもしれない。

 

著者南さんは恐山のお坊さん。

(まだ中学生のころから自分が生きているということ、自分の存在にひどく不安を感じ、

それを問うような少年だった。その答えを求めて《家は寺ではなかったけれど》出家し、

曹洞宗の本山「永平寺」で長く修行された)

 

強く感じたことところだけ紹介し、感想を書きます。

 

ーーーーーーーーーー

生きているだけで大仕事

問答無用でこの世界に投げ出され、一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる

まさに不本意なまま、予め人生は始まってしまっている。

無駄な時間は大切だ

何かの役に立つために生まれてきたのでもない。生まれてきたら、役に立つこともあるにすぎない。

ならば、最初に「生きなければならない」確かな意味も理由もあるわけがない。…

無駄で当たり前だと承知の上で、その人生を持ちこたえるために、あえて意味を創作する

無駄を受け容れて、無駄の上に意味をおいて、謙虚に考える

適当に生きよう

「仕方がない」も決心のうち

「仕方がない」は、「過去」と「正解」を捨てる決意なのだ。

我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めたのだ。

ならば、これからも「仕方なく」生きていけばよいし、

「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニックだ。

 

命の種-「あなたがそこにいてくれるだけでいい」

理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在が、

「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、…自分以外の誰かに大切にされたからである。…

「命の尊さ」が理解できるのは、「あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい」

と断言する者がいて、言われた人がそれを実感できた時だけである。

それこそが「命の種」なのだ。

したがって、我々(子)は自分の存在に何ら責任は無い。責任は一方的に「親」にある。

その自覚と、責任を負う覚悟が無ければ、人は「親」になってはいけない。…

社会、あるいは国家は、メンバーの世代的「再生産」を、「家族」「親」に委託している。

この「再生産」が無ければ、社会も国家も成立しないのだから、

社会や国家が「家族」「親」に対して、「再生産」に協力し、これを保護するのは、

無条件で第一義的な責務である。…

子育て支援」などと、尊大で悠長な言い草で誤魔化すような話ではない

 

   


ーーーーー

① 「生きているだけで大仕事

② 「無駄で当たり前だと承知の上で

③ 「「仕方がない」も決心のうち

④ 「「仕方なく」生き始めた

この四つの言葉、言い回しが心に響いた。

どれもきっちり意識しないままだけど、普段から思い実践していること。

でもこうして言葉にされると改めてしっかり意識され、うなずく。

ーーーーー

① 「生きているだけで大仕事

 

ある程度の苦難を経験したり長く生きれば、こんな感慨を持ちやすいと思う。

生きているだけで大仕事」の自分を褒めるのは大事だ。

 

しかし、経験という過去のたいへんさをふり返ってこんな「感慨」を持つことも

大事だけど、それを未来に向けての心構え」という姿勢を持つのも大事だ

 

その人が主人公の人生という舞台では、起こる、出あう物事はわからない。

そして、その人は自分だけのさまざまな反応をし、行動をとる。

三者の誰にも見えてわかる物事はそうだけど、その人生舞台はその人だけのもの

なので、本人の心、頭、要するに主観(これこそ自分の中心、核)を含めた全体像は、

けっして他人には(理解してくれているはずの親愛の相手でさえ)見えず、わからない。

あたり前のことだ。

お互いがお互いに代わって生きることはけっしてできないのだ。

 

あーぁ、「生きているだけで大仕事

 

   


ーーーーー

② 「無駄で当たり前だと承知の上で

 

そもそも生まれてきたこと自体が奇跡というか、不思議そのものなのだと思った

ほうが、そう思わないより断然、生きやすくなる。

 

大事なのは生きやすい、生きるのが楽しい、幸せだと感じることだと思う。

(私はよく「偶然」という言葉を使うけれど、そのとき反対の「必然」を想定しているわけでは

ありません《「偶然」は「偶然」、「必然」は「必然」。二項対立として捉えないようにしている》

「無駄」ということも、「無駄ではない」ことの反対ですが、「無駄」も「無駄ではない」もない

という捉え方もあると思うのです)

 

人生は「無駄で当たり前だと承知の上で」生きてみると、生きやすい)

ーーーーー

③ 「「仕方がない」も決心のうち

④ 「「仕方なく」生き始めた

 

仕方がない」という決心は「諦め」であるけれども「明らめ」でもあります。

(ネットのAIによる概要によれば、仏教用語で「諦」という言葉は「真理」を意味し、

「諦める」とは「明らかに観る」「現実をありのまま観察する」ことを意味します」)

 

生きているということは、「いま現在」という時間と「ここ」という空間(場所)

しかない仕方がない」こと。

また、「我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めた」。

生の現実(現在)も、スタート(発生 誕生)仕方がない」ものなのだ。

 

なので、「「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニック

 

 

                        f:id:kame710:20171029114701j:plain

                        ちりとてちん

石投げて 心つながる 秋の水  木下夕爾

 

<