これからのアメリカ大統領はトランプに決まった。
アメリカの二大政党というのはどっちになっても政治自体はあまり変わらない。
(政治というのは「政策」が問われるからそっちがいちばん大切なことで、人柄はどうでもよい
のかもしれないが、ただ、あちこちで悪く言われるような人が国のリーダーになれるということが
私にはわからない。
そのわからなさ《不思議さ》がアメリカという大国のふところの広さ深さなのだろうか。
島国日本の自分には理解できない。
ともかく、トランプがああいう人物でも彼の言う政策に、ハリス以上に人々は支持したわけだ。
日本はといえば、先日の衆議院議員選挙のときなど実現は無理だと自分がいちばんよくわかっている
はずなのに、少しの恥ずかし気もなく正々堂々と、よくあんな公約を口にできるなあと呆れた。
票欲しさに国民を騙す。
戦争で殺人も罪にならないのと同じく、選挙でウソついても詐欺罪にならないので平気で
大ぼらを吹く《もちろん謙虚な候補者もたくさんおられました《落選されたけど》。
そういうグチはどうでもいいけど、このグチはどうでもよくないです。
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この年まで国政選挙を見てきていつも強く感ずることは、日本共産党とは手を結ばないという野党
がいる事実《私が若いころから全然変わっていない》。
「赤」《戦前からの共産党への偏見》アレルギーがこんな長いあいだ国民に持続して浸透している
とは思われない《いや浸透している?》。「日本共産党とは手を結ばない」という野党は、
そういうエゴ、狭量が何を果たしているのか考えたことあるのだろうか。
日本共産党は、中国や北朝鮮をモデルにしたいと考えていると、本気で思っているのだろうか?)
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上に書いた政治とは直接的には関係ないけれど、世の中で「人工知能」「AI」…と
うるさい中、「天然知能」という言葉を初めて聞き、刺激された。
『天然知能』 郡司ペギオ幸夫 ・著
本には「天然知能」に対して「人工知能」「自然知能」が出てくる。
(「人工知能」との違いはピンとくるけれど)「天然」と「自然」は同じ感じがし、
ややこしい。
(「人工知能」がデジタルであるのに対してどちらもアナログですが、同じアナログでも
目のつけどころによる違いが述べられます)
初めに「天然知能」についての著者の考えが述べられる。
「ただ世界を、受け容れるだけ…(だから)一切無意味であるものも受け容れる。
評価軸が定まっておらず、場当たり的、恣意的…」
(例えば、ある人にとっては)「天然知能が見るナマズやコイのイメージは、
水面から見る影であり背中」。
つまり、見るもの(ナマズやコイ)の全体を外部、周り(池や川、水の状態など)を
含めて(一切無意味である《と思われる》ものも)受け容れる。
(「評価軸が定まっておらず、…恣意的」なので、上の例の「ナマズやコイのイメージ」は、
別のある人にとっては、摑んだときのぬるっとした感触のナマズ、まな板の上のコイかも)
対して「人工知能」とは、「一元的価値観で全ての知覚されたものを評価する…
自らにとって有益か有害か…」
また「自然知能」とは、「『世界にとっての』知識世界を構築する対処であった」
(一度読んだだけでは私にはよく理解できなかった)
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著者は生命哲学を始め学際的に研究している多彩な学者。
本は一般読者向けであっても私には難しかった。
難しかったけれど、面白そうな名の項目に惹かれて分からないなりに読み進めて
いたら、三つの知能の違いがイメージされてきた。
「人工知能」はおき、「自然知能」と「天然知能」の違いは、
「自然…」が「『世界…の』(客観的な)知識世界」を扱う学校教育的なものなのに
対し、「天然…」は、「『世界…の』(客観的な)知識世界」を扱う人(主体)の
すべて((感覚、心《感》情、考えなど全体)をプラス、含んだもの。
だから何かに出あう、扱う、向かう、観察する人(個性)により、その世界の姿は
多彩で多様。その時その場の一回限り。
(「自然知能」はウィキペディアに書いてある通りです。
「ナマズは「ナマズ目はナマズ科に属する硬骨魚類の一種…」であり、
コイは「コイ科に分類される魚の一種。比較的流れが緩やかな川や池、沼、湖、用水路などにも広く
生息する大型の淡水魚…」
ちなみにはコイは「カープ」で、プロ野球の広島ファンの「天然知能」にとっては
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私たちの世界(生きる自分が接し、触れ合う世界。自分ひとりだけの小さなもの。
「マイリトルワールド」だけど絶対的なかけがえのないもの)、また自分のあり方を、
こういう三つの頭、知能でとらえてみるとどうなるだろう?
①「人工知能」では その人だけの知覚、オリジナリティ、アイデンティティは
どうでもよく、何らかの目的に応じた他人との共通な属性・項目だけが取り出され
「一元的価値観」のもとにデジタル処理される。
②「自然知能」では その人だけの知覚、オリジナリティ、アイデンティティを
含めてヒト(人類)、人間を客観的に見ようとする。
③「天然知能」では 自分の日常を生きている中での知覚すべてを大事に扱う。
つまり、主観を大事にする。
雑然とした、とらえどころのない私(自分)と私の世界(マイリトルワールド)を
大事にする。
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(また本にはこうも述べられていました。
「《「天然知能」は》「自分で見ることのできない向こう側、…を受け容れる知性であり、
創造(想像)を楽しむことができる知性…自分が自分らしくあることを、肯定できる。唯一の知性…」
…
「人工知能や自然知能は、知覚したものだけを自分の世界に取り込み、知覚できないものの存在
《つまり「自分で見ることのできない向こう側」》を許容できません。…
知覚されないものは《向こう側》、即、存在しないことになる」
「〈「心のモデル」なんていらない〉
《金子みすゞの詩》
子供が 子雀 つかまえた。 その子の かあさん 笑ってた。
雀のかあさん それみてた。 お屋根で 鳴かずに それ見てた。
《「人工知能」は》詩に現れた文言だけを知覚し、その意味を解釈することになります。…
《だから、後半の「雀のかあさん それみてた。 お屋根で 鳴かずに それ見てた」をもって
母雀は何と薄情なんだろうという答えしか出さない。
そのとき《つまり前半》の状況、事実を子雀のために何も出来ずた、だ「鳴かずに」見る以外に
なすすべのない母雀の「心」がわかるわけ絶対ない。
人間以外の生きものの「心」《その生きものがそもそも「心」をもっているのかどうかわからない
けれど》を問うとき、「天然知能」つまり「自分で見ることのできない向こう側、…を受け容れる
知性であり、創造(想像)を楽しむことができる知性…自分が自分らしくあることを、肯定できる
唯一の知性…」の場合だけ、人それぞれに、その人なりに、生きものの「心」を感じ取れる。
《「人工知能」だけではなく、客観性にこだわる「自然知能」も感じ取れない》
そもそも心のモデルなんて書き下せるものでしょうか」
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本にはいろいろなことが述べられてあった。
けれども、突きつめれば「天然知能」。
(最後にいちばん強く心を打った言葉を紹介します)
「ただ毎日を生きるだけでも創造的…」
蜻蛉の空 蜻蛉の 空の上 後藤比奈夫