日本の「持続可能性」を考えたとき、著者もAIも「コミュニティ」の大切さを
指摘する。
ということで、今日は「格差」に続いて「コミュニティ」です。
(初めにすごく感じたところだけ引用、紹介します)
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①「〈コミュニティという”あいまいな”存在〉
コミュニティがなくとも人間の社会は成り立つというのが近代的なパラダイムだった。
…
近年に至り、様々な背景から、そうした「個人-社会」、「私-公」、「市塲-政府」
といった二元的枠組みでは、現在生じている種々の問題の解決は…不可能(だとわかった。
たとえば「私-公」の間に「共」が加わるらなければならない。
そして「共」とはまさしく「コミュニティ」)」
②「(「シンギュラリティ論」のような)「スーパー情報化」ないし「スーパー資本主義」…
ではなく、むしろ身体性やローカルな場所性、あるいは情報に還元されない生命そのものへの
”着陸”という方向が、人間の理解や幸福にとって、あるいは有限な地球の持続可能性にとって
望ましい道」
③「〈「居場所」とまちづくり〉
(これからもとめられるのは)「都市政策と福祉政策の統合」
・「歩行者が歩いて楽しめる街」
・「コミュニティ感覚」とまちづくり
クルマ依存型の地域構造のため”買い物難民”が600万人ないし700万人といった規模で存在する
といった状況では、「コミュニティ感覚」は大幅に損なわれてしまう
(著者は「コミュニティ感覚を持てるまちづくり」は、日本のような「成熟社会においては
非常に重要」だという)
日本の都市は圧倒的に自動車・道路中心で、その背景の一つは、戦後の政策が基本的にアメリカの
都市・地域像をモデルにしてきたことである。
(そして述べる。「「高齢化」を一つのチャンス」とすべきだと)」
④「〈ローカライゼーションと情報化/ポスト情報化〉
(著者はこれからの日本は都市への「一極集中」でなく「地方分散」、「ローカライゼーション」
の必要を説く)
・「ポスト工業化そしてポスト情報化の時代」(に求められるのは)
①福祉・医療 ②様々な対人サービス ③環境関連分野 ④文化 ⑤まちづくりやデザイン
⑥農業(もともと「ローカル」でしかあり得ない)
・「ローカル」(な世界での価値は)「非貨幣的な価値」
・「場所」や「コミュニティ」は本来の資本主義が内包しない
・(「ローカライゼーション」は)資本主義が進化していったその展開の先において、
その”内部”から生成してこざるをえない新たなベクトル(であり、動きである)」
(便宜上、①~④の四つに分けました)

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私は子どものころは田舎(村落)で暮らしていた。
子どもでも煩わしいと感じるほどのお隣さん、近所、地域(「コミュニティ」)
とのつき合いがあった。
(何でもそうだけど、小さいときは他を知らないので、日常生活はそれが自然、当然だった。
《他は考えられなかった》
いまのように情報に溢れた世界ではなく、わが家には本もなかったので《学校には図書室があった
はずだが本には見向きもせず、野原や川で遊んでばかり》世間のすべては目の前の集落だけだった)
そんな小さな世界がイヤで故郷を出た前後は(後になってふり返れば)高度成長期の
ど真ん中。
(人と人のつき合いだけではなく、つき合おうにも人がどんどん減り、私の故郷だけではなく
村落や田舎という地域は日本全国どこでも時代の波に呑み込まれガタガタ…)
故郷を遠く離れると、しかも働き、家族を持って生活を営むようになると、
社交的ではない私のような人間には、「コミュニティ」と呼べる地域はなくなった。
(自ら積極的に住んでいる地域に働きかける人なら違ったのだろうが。
「コミュニティ」どころではなかった。
(家族の生活と仕事をきちんとこなすだけで精いっぱい。
昔からの住民が多い地域での新たな住民として溶け込むのは私には難しかった)
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自分のことを書いてきたけれど、①~④、述べられていることには深く
うなずいた。
①で述べられているように、「コミュニティ」は(言われてみれば、確かに)
「”あいまいな”存在」という気がする。
が、「”あいまいな”存在」であるがゆえに、「「個人-社会」、「私-公」、
「市塲-政府」」の中間的なものであり得るわけで、ここで「コミュニティ」を
ふつう言うように居住「地域」ということに限定しなければ、
例えば仕事をしていたときは職場という中間の人間関係の場があったから、
「コミュニティ」はあったといえる。
それは「共」。人間が生きていく上で大事なものだと思った。
(とうの昔に退職したのでいまはそれもない。
いま住んでいる地域にも「コミュニティ」と呼べるものは感じない。
確かに自分の場合はないけれど、先に書いたようにその大切さは②③④と強く感じる。
しかし、
「コミュニティ」は大切ではあっても、①の「コミュニティがなくとも人間の社会は成り立つ…」
ということが実感される。
というのは、先日、NHKスペシャル「映像記録・阪神淡路大震災」というテレビ番組で、
30年前の瓦礫に埋まって姿も見えない被災者を、自身も被災者の通りがかりの人たちが力を合わせて
助けようと必死になっている当時の生の映像を見て、見ず知らずの人であろうと、
人は辛い目に遭っている人、困っている人を見たら、その人に自分を重ね、
何か自分に出来ることをしようとする共感力を本来的に持っている、備えていると
防災の専門家が話していたことを思い出したから。
いまの私は老いた障害者で、助けられることはあっても助ける側にはなれないけど、
気持ちの上ではあの日の「通りがかりの人たち」とまったく同じだ)

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③の〈「居場所」とまちづくり〉の「歩行者が歩いて楽しめる街」
「コミュニティ感覚を持てるまちづくり」を身近な小さな話として痛感する。
被災したときなど非常時は「共助」、「きずな」が実践され、現実になっても、
ふだんの高齢化社会では日々の暮らしの大半は地域、つまり「コミュニティ」で
営まれる。
(「日々の暮らしの大半は地域、つまり「コミュニティ」…」が身に沁みる。
さっき書いたが、仕事しているときは「職場」があるけれど、辞めたらない。
辞めても、長い時間を活動的に過ごすことができれば別だけど。
高齢者の運転免許証返上がいわれるが、現状では車がなければ食料品調達もままならなくなり、
多くの高齢者が「買いもの難民」になりがち。
ウチではすでになっている。いちばん近いスーパーまでは片道40分かかるけど、長い散歩のつもり…
ただ長いので途中で腰を下ろしたくなる。
道の途中、ベンチが適当に置かれ、いつでも休める「歩行者が歩いて楽しめる街」になってほしい。
いまの「「高齢化」を一つのチャンス」にし、そういう街づくりをしてほしい)
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④の〈ローカライゼーションと情報化/ポスト情報化〉
「地方分散」の必要を、政治的な大きな話として強く感じる。
終わりの一文、ローカライゼーションは「資本主義が進化していったその展開の
先において、 その”内部”から生成してこざるをえない新たなベクトル」
というのは本当にそう思う。
(地域テレビ局はもちろん、ケーブルテレビの地域情報チャンネル、全国的な大きなテレビ局でも
例えば『出没!アド街ック天国』、UターンやIターン関係では『人生の楽園』、『いいいじゅう』を
見ていると、人の幸福というのは多様だと痛感せざるを得ない。
人々の幸福の中身に目を向けると、いままで「一極集中」の都会でしか実現が難しかったことが
地方でも可能になるほど、「資本主義が進化していった」からだと思う)

鬼もまた 心のかたち 豆を打つ 中原道夫