朝ドラ『あんぱん』 のことを書いていて、あらためて戦争のどうしようもない
不条理、悲劇、残虐さが思われてならない。
前の記事にも書いたように、戦争がいかに不条理で残酷、悲惨なものなのか、
それがどれだけ人々の心に取り返しのつかない傷跡を残すかということを、
犠牲となった無数の人々の無念の上にこの「平和」が築かれているということを、
『あんぱん』を見て痛感せざるを得なかった。
(戦後80年の2025年に合わせ《意図し》『あんぱん』は制作されたのだろうか?)

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親戚や近所に戦死した人が多数おり、田舎の母校には小さな二宮金次郎の石像と
立派な大きな石の「忠魂碑」があった。
子どものころにはあの戦争は終わっていたが、まだ遠い過去にはなっておらず、
人間の大バカとしかいいようのない戦争をなんで日本はしたのか?
子ども心にも気になっていた。
戦後19年(19年は、私が障害者になってからと同じ年数)になり、「戦後は終わった」
とされて日本の復興ぶりを海外に示すため(誇示するため)「東京オリンピック」が
開催されたが、「戦後」という時代の空気、雰囲気はまだ残っており、戦争の
不条理、残酷で悲惨きわまる場面を描いた映画やドラマはまだまだ多く、
これでもかというくらいそれらに接してきた。
けれど、戦争に「慣れる」「飽きる」ということは決してない。

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戦争は地震、台風、大雨、津波など自然現象のように避けられないものではなく
人間の意思、心によってしないですむ。
そうなのに、なんで、なくならないのだろうか?
たまたま生まれたところに戦争があれば、「敵」という名の相手を殺す
ことになる不条理、悲劇、残酷。
(中国大陸に侵略した日本軍。『あんぱん』では、ギリギリに追い詰められた戦場で
自分の命を守るために構えた銃剣《「構えた」だけで積極的に突こうとしたわけではない》で
死んだ相手兵士のポケットに家族のセピア色のぐしゃぐしゃの写真を見つけた八木さんが
嗚咽する場面があった)
たまたま生まれたところに戦争があれば、「敵」という名の相手に殺される
ことになる不条理、悲劇、残酷。
(戦争が終わり、八木さんはやなせさんたちとともに生きて帰れたけど、妻や子ども、
愛する家族はみんな空襲で死んでいた)
「たまたま」というのなら、
たまたまそこにいた虫の死骸を見つけて一生懸命、巣穴に運んでいただけなのに、
ちょっとした用があってたまたまそこを歩いた人間に踏まれて死んだアリ、
たまたまそこに花が咲いているのを見つけて蜜を求めにやって来ただけなのに、
たまたまそこに飛んできた鳥に食われた蝶と、
戦争で傷つき、死んだ人間も同じ。
その事実を、私たちはどう受け取ればいいのだろう?
どうすれば納得できるのか…
「たまたま」という避けられないウンに身を任せるしかないのなら、
人間も他の生きものたちと何も変わらない。
(そういえば、遺伝子レベルでは《ということは生物学的には》ヒトも他の生きものと
あまり変わらないらしい。
では何がヒトを人間たらしめるのだろうか?)

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こんなこと書いていたら、「ブォーン…ブォーン…」腹の底に響くような
不気味な音がしてきた。
日本でしか通用しない「自衛隊」という名の軍隊のヘリコプターだ。
3、4分おきに10数回、あっちの山の端から起こり、こっちの山の端に消えていく
(近くに基地があるので、今日は大規模な演習か何かがあるんだろう。
ツレが気になってネットで調べたけれど何もわからなかった。
大規模であっても演習は訓練、実践《戦争》ではないのでヘリの飛行コースまでいちいち
国民に知らせる義務はないのだろう)
テレビからは、北朝鮮は今後も「平和は武力の均衡があってこそ」だから、
核兵器開発を続けていくと金正恩が…、日本の防衛をめぐって今後は
(中国に対抗するため)南西諸島が重要だと中谷防衛大臣が…というニュースが
聞こえてきた。
ウンザリする…

蟷螂に 近づけて顔 尖りたる 大串 章