最後です。
⑤「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」
⑥「「生きる」ことは当たり前のこと」
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⑤
「臨床の現場では、「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものが
必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある
…
現実的な問題をとことん考え抜くと、最後は浪漫的とも受け取れる考え方へとたどり着くのかも」
⑥
「(障害者差別をなくす運動の草分け「青い芝の会」の横田弘さんは
「権利」という言葉をほとんど使わなかった)
「生きる」ことは当たり前のことであって、「権利」以前の問題だからだ」

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⑤
「臨床の現場では「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものが
必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある」
とても大事なことが言われている。
患者さんや入所者・利用者さんに関わる医療や介護など、臨床の現場での
専門職の方だけでなく私自身も、ふつうの日常生活の場で接する人に(老いのいま、
相手はツレ一人だけど)「『生きて在ること』への畏敬の念」みたいな気持ちを持って
対したい。
(私は入院のとき酷い扱いを受けたわけではないが、患者としての自分に対して主治医が
「『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものを持っているとは、全然感じなかった。
それどころか、回診で顔を合わせるのもイヤだった。というわけで、
私の場合は主治医への嫌悪感が退院への動機付けとして働いて「回復」《ではなくあくまで
「退院」》への歯車」になったかも…)
かなうならば、「『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものを感じさせてくれる主治医に
当たりたかった。
そういう人に当たるなら死んでもいいとさえ思った。
その思い、気持ちはいま「浪漫的」と感じられる)

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⑥
「「生きる」ことは当たり前のこと」
「「生きる」ことは当たり前」であって、「「権利」以前の問題」
考えてみれば、「生きる」ことは先ずありき。
(「生きる」事実・現実はこの世のすべての前提だ。
その事実・現実が先にあるのであって、人は「生きる」という「権利」があるから生きている
わけではあり得ない)
人の脳に後から発生した(「起きた」「浮かんだ」「湧いた」)「権利」という観念とは
まったく次元が違う。
「権利」と呼ぶものがあろうがなかろうが、「生きる」ことは当たり前のこと」
であり、人は現に(死なない限り)生きている。
(ただ頭の中のことではあっても《後付けだから結果的、歴史的になってしまうけれども》
やっと近代になって初めて登場した「人権」という観念《概念、考え》が、
「生きる」ことは当たり前のことを助けてくれた《いる》のは確かなこと)

嬉しさに 淋しく成りぬ 草の花 乙二