カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2025.10.14 まとまらない言葉を生きる(後)

 最後です。

⑤「その人が『生きて在ること』への畏敬の念

⑥「「生きる」ことは当たり前のこと

 

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臨床の現場では、「その人が『生きて在ること』への畏敬の念みたいなものが

必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある

現実的な問題をとことん考え抜くと、最後は浪漫的とも受け取れる考え方へとたどり着くのかも

 

(障害者差別をなくす運動の草分け「青い芝の会」の横田弘さんは

「権利」という言葉をほとんど使わなかった)

「生きる」ことは当たり前のことであって、「権利」以前の問題だからだ

 

      


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臨床の現場ではその人が『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものが

必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある

 とても大事なことが言われている。

 

 患者さんや入所者・利用者さんに関わる医療や介護など、臨床の現場での

専門職の方だけでなく私自身も、ふつうの日常生活の場で接する人に(老いのいま、

相手はツレ一人だけど)『生きて在ること』への畏敬の念」みたいな気持ちを持って

対したい。

 

(私は入院のとき酷い扱いを受けたわけではないが、患者としての自分に対して主治医が

『生きて在ること』への畏敬の念みたいなものを持っているとは、全然感じなかった。

それどころか、回診で顔を合わせるのもイヤだった。というわけで、

私の場合は主治医への嫌悪感が退院への動機付けとして働いて回復《ではなくあくまで

「退院」》への歯車」になったかも…)

 

かなうならば、『生きて在ること』への畏敬の念みたいなものを感じさせてくれる主治医に

当たりたかった。

そういう人に当たるなら死んでもいいとさえ思った。

その思い、気持ちはいま浪漫的」と感じられる

 

      


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「生きる」ことは当たり前のこと

 

「生きる」ことは当たり前」であって、「権利」以前の問題

 

 考えてみれば、「生きる」ことは先ずありき。

「生きる」事実・現実はこの世のすべての前提だ。

その事実・現実先にあるのであって、人は「生きる」という権利」があるから生きている

わけではあり得ない

 人の脳に後から発生した(「起きた」「浮かんだ」「湧いた」)「権利」という観念とは

まったく次元が違う。

 

「権利」と呼ぶものがあろうがなかろうが、「生きる」こと当たり前のこと

であり、人は現に(死なない限り)生きている

 

(ただ頭の中のことではあっても《後付けだから結果的、歴史的になってしまうけれども》

やっと近代になって初めて登場した人権という観念《概念、考え》が、

「生きる」ことは当たり前のこと助けてくれた《いる》のは確かなこと

 

 

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                           ちりとてちん

嬉しさに 淋しく成りぬ 草の花  乙二

 

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