カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2025.10.17 哲学は誰にとっても、いつも必要なもの

 ゴーギャンの有名な言葉に

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

というのがあります。

 

 そんなことどうだっていい、それがわかったところで飯が食えるわけでもないし

という考えもあるけど、私はやっぱり知りたい!

 自分はどこから来たのか、自分は何者か、自分はどこへ行くのか?

 生まれ、生き、死んでいくことを。

 

 自分は幸いにも老人になれた。あとは死ぬだけ。

 しかし、死ぬまで「我々はどこから…」にこだわりたい。

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 そういうことが自分の読書、本を選ぶときの物差しのようなものになっており

こんどは、

 

 『考えるとはどういうことか-0歳から100歳までの哲学入門』  梶谷真司・著 

 

(グーグル画像より)


を読んだ。

 

哲学は誰にとっても、いつも必要なものだと「はじめ」に述べられている。

 

(「哲学」はネットによれば、世界や人生の根源的な問いに対し、理性を用いて深く考察し

質を探求する学問です。

存在、知識、価値、心、言語といった普遍的で根本的な問題について、批判的・論理的に

探求し、人間や世界が持つ意味を解き明かそうとします。

古今東西の思想家が記した文章を学び、自己の考えを論理的に整理して他者と対話することで

批判的思考力や論理的思考力を養うことができます」とのこと。

 

それはいのだけど、「哲学」という呼び名、言い方が悪い。

ともかく悪い、印象がよくない。

何か難しそうで、エラそうで、親しみにくく取っつきにくい。

誰もが気軽にというイメージがない。

 

哲学」から「日本共産党」を連想した。

この政党のことは深く関係していたこともあるので内からよく知っているつもり。

昔からずっと社会的弱者の味方で誠実。党勢拡大に頑張っているけど未だにうだつが上がらない。

いいところまで行ったこともあるけど、いまは後から生まれた政党に簡単に追い越されている。

《けど、ただひとり「政党助成金」なるものを受け取らないところはホントにすばらしい》

未だに「アカ」のレッテル、「偏見」は消えないのだろうか

社会主義」「共産主義」は終わったといわれ、残った中国、北朝鮮は「独裁」政治。

いまは、「共産」という言葉にとてもよくないイメージ、印象が広がったと思う。

「誤解」「偏見」があるなら解いてください》

 

SNSのような短文で映像の情報が大きな影響力をもつ現代では、イメージ、印象はとても大切に

なってくる。

哲学」も日本共産党」も、好感の持てる、親しみやすい呼び名があるといいと思うのだけど

 

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哲学は誰にとっても、いつも必要なものだというと、フランスの高校での

哲学教育を思った。

 

(ネットのフランスの高校での哲学教育」によると、

フランスの高校3年生は、文系で週8時間、理系でも週4時間の哲学の授業を受けます。

授業内容は、「人間とは何か」「愛とは」「自由とは」などの命題に対する議論が中心です。

教科書はさほど使用されず、正解はひとつとは限りません。

生徒は自由に考えたことを論理的に構成して、他者に伝える力を養います。教師は議論の展開を

促すために、歴史上の哲学者の思想を参照し解説したりします。

こうすることで、過去や現在の思想を単なる知識としてではなく、生きた言葉として提示し、

学生らの思考の深化に役立たせるのです。
現在のフランスの哲学教育は、1920年代に確立しました。

数学にしても歴史にしても、学年が上がるにつれて、学ぶ内容はどうしても細分化されていきます。

選挙権を得る18歳前後の高校3年の時期に、それまでの知識を総合し、

社会の一員としての資質を養ってもらうために、哲学が活用されているのです

 

前置きが長くなったので、今日は「はじめ」の続きを紹介して終わり、

続きは次回から3回に分けて書きます)

 

     


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哲学は誰にとっても、いつも必要なものだ」

かつての哲学はいわゆる「知識」として学ぶもの、…一つの専門分野だったのが、

昨今では対話において自ら「体験」するもの、いわば「哲学する」になっている

(普段の生活では「考えないこと」が当たり前となっていて、…

むしろ「考えること」とは反対のこと、「考えないようにすること」ですらある。

考えること(は本来)「自由になること」

考えることは)さまざまな恐れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとる

ことができる。

それが私たちの生に自由の余地を与える。

現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていない

考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いている

 

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哲学は誰にとっても、いつも必要なものだけど、

(私は宗教の本にも接する中で)

宗教も同じように「誰にとっても、いつも必要なもの

と思うようになった。

 

 どっちも「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を

大事にしていることは同じ。

 違うのは「考え続ける」か「信じる」だけだと思う。

私の場合は「考えること」が行き詰ったところ、考え続けても答えが出ないところに

信じる」が出てきた。

私のすることだから「行き詰まる」ところまで考え続けたわけではない。

実際は「考え続ける」しんどさから逃げるというのが正しい。

それで最後は信じる

 

      


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 宗教考えても答えは出ない、考えても仕方のない、人間の力の及ばない、

どうにもならないものごと(人生や自然)は「信じる」ほかないという信心信仰

問題だけど、初めから考えること」をしないわけでは決してなく、最終的な姿勢

態度が信じる」ほかないという信心信仰に帰着したもの(だと私は思う)

ところが哲学は、最後まで諦める(のが、宗教のではなく明らめようとする、

考えること」をやめないものだと思う。

 

(どんな社会でも、考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたる

ところに働いている

けれども考えること」はやめてはならない。

 

やめることは、その社会を維持しよう、続けようとすることが自分にとって都合のいい者

《支配する側》が望むことだ。

考えるこ」はやめてはならないが、ホント、疲れる

 

最期は考えること」ではなく、浄土《キリスト教などでは天国》を信じたい)

 

 

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                           ちりとてちん

人去りし ままに椅子あり 天高し  池内友次郎

 

 

 

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