『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗 著
子どものころ、田んぼのあぜ道を、この本の絵のように目をつぶり
杖を頼りにそろりそろりと歩いてみたことがあった。
気づいたときはすでに遅く、あぜ道の横、(道から下に1m以上あったような)
水路に落ちた。
(水が流れていたが浅かったので、ケガはしなかったと思う)
鼻たれ小僧だったころの思い出だから細かなことは思い出せない。
確かなことは、目が見えない人が杖を頼りにして歩くのはどんなのか?
自分で実際にやって確かめたかったという事実だけ。
(長じて「○○ライトハウス」という視覚障害者支援センターのようなものを知り
点字を身につけようとしたことがあるけれど、長続きせずものにならなかった)
ーー
子どものときの「好奇心」は、細々とでも無意識のうちに大人になってからも
ずっと生き続けるものなのだろうか。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という書名を見たとき、咄嗟に
読みたいと思った。
私がこれまで思ったり考えたりしたこともないことが書かれており、
すごく刺激的だった。
初めて知る世界だった。
(三回に分けて紹介します。
今日は「はじめに」と「序章」です)
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「〈はじめに〉
● 私たちの多くは、目に頼るあまり、(目が見えない人の)「世界の別の顔」を
見逃しています。…
見えない世界しか知らない人にとっては、逆に目で見た世界が「別の顔」になります。
…
● この本は福祉論ではなく身体論…(障害を)助けるのではなく違いを面白がることから、
障害に対して新しい社会的価値を生み出すことを目指しています」
「〈序章 見えない世界を見る方法〉
見えないことと目をつぶること
● それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることは全く違うのです。…
そこで感じられるのは欠如です。
● 「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。
視覚抜きで成立している体そのものに変身…
(つまり、著者は目が見えるけれど目をつぶるのではなく、身体ごと目の見えない人、
視覚障害者になったらということを言っている。
たぶんそれは「四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなもの」で
「どちらもバランスがとれている」のではなかろうかと)
…
見える人が見えない人に対してとる態度
● (目の見える人は)一般的にはどうしても「情報」ベースになりがちです。
そこに(目の見えない人の)「意味」ベースの関わりも追加していきたい…
(著者は言う「「情報」ベースの関わりとは福祉的な関係、発想」だと)
「意味」ベースの関わり、意味のレベルのつきあいなら、意味に関して、
見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。…
見えないからこその意味の生まれ方があるし、ときには見えないという不自由さを
逆手にとるような痛快な意味に出会うこともあります。
そして、その意味は、見える/見えないに関係なく、言葉でシェアすることができます。
そこに生まれるのは、対等で、かつ差異を面白がる関係です。…
(「見える世界と見えない世界」の関係は)異なる文化に属する人と関わる経験に似ているかも…」

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はじめの「この本は福祉論ではなく身体論…(障害を)助けるのではなく
違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出すこと」
と述べられている。
著者のその発想、考えがとてもユニーク、面白く、驚いた。
目の「見えない人」というと普通、「福祉論」になりやすいのに
「身体論」という。
本当に新鮮だ。
次の〈序章〉「見えないことと目をつぶること」では二つの決定的(というか
質的な違い)違いがいわれている。すなわち、
「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではなく、
「視覚抜きで成立している体そのものに変身」してみることと、見えるのに
目をつぶって一時的に単に見えない状態にすることの違い。
目という身体の一部の「欠如」状態を体験してみるのではなく、
目が見えない人の「体そのものに変身」してみるのが、
「身体論」ということかなと思った。
(後に著者は目という視覚に限らないさまざまな身体の部位に障害を抱えている人たちを
インタビューしたときの話を書いておられるけど、
どの障害者も、全身の体感を通してその部位の障害を「面白がる」、不思議がっておられた。
まさに「福祉論ではなく身体論」だった。
私には平衡障害、バランス感覚に障害があり、フラフラで片足立ちができない。
フラフラしていても手すりや壁などはもちろん、身体を支え、受け止めてくれるものなら
何でもうまく見つけて利用する。
こけそうになると「オットット…」と声が出ながら、足が無意識にドタドタ音をたてて踏んばる。
そうして私も「面白がる」ようになった)

ーー
目の見える人は「「情報」ベースになりがち」なのに対し、
目の見えない人は「「意味」ベース」ということ。
私はこれまで考えたこともなかったけれど、「言われてみれば確かに…」
すごく納得した。
(「情報」ベースの関わりとは福祉的な関係、発想」。
福祉の恩恵に与ろうとすれば、先ずは「情報」を知らなければならず、とても大切なことだ。
しかし、「情報」はあくまでも「情報」。
その「情報」がどういう「意味」を持っているかは福祉の恩恵に与ろうとする個人の問題だけど
その人が生きるということはその個人が生きるということだから、
私という個人にとっての「意味」の問題はいちばん大事なことだと思った)
ーー
そして、「「意味」ベースの関わり、意味のレベルのつきあいなら、意味に関して
見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません」
「その意味は、見える/見えないに関係なく、言葉でシェアすることができます」
本当に大切なことだ。
(言葉なら「見える/見えないに関係なく」お互いが通じあうので「福祉」を介在させない。
「見える/見えない」の「差異はあっても優劣は」ない。
「見える/見えない」の違いはあっても、同じ日本語を使うのだから意味の前では
「見えない」ことは関係なく、「見える」人の援助《福祉》は必要としない。
これも「言われてみれば確かに…」とわかる単純だが、とても大切なことなんだ)

ちりとてちん
ときをりの 風のつめたき 桜かな 久保田万太郎