カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2026.4.14  目の見えない人は世界をどう見ているのか(中)

2回目の今日は、見えない人」にとって「見えない」世界はどういうものか?

 

見える」側からすれば「見えない」はやっぱり不便だと思う。

見えない」がいつもの状態なら、慣れる。

 慣れて「見えない」世界が「普通」「当たり前」となれば、

見える」=便利、見えない」=不便という二項対立的な見方を超越している

といえるのかもしれない。

障害の種類、程度はちがうけど、私も長いあいだ障害者なのでとてもよく実感できる。

障害があると「不便」だが、慣れはその客観的な「不便」を「不便」とは感じなくなり

捉えなくさせる)

 

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空間 見える人は二次元、見えない人は三次元?

(著者の勤務先、「大岡山」という名の小高い丘に、見えない人の木下さんを案内したときの

木下さんの言葉→

大岡山は、やっぱり『山』なんですね」

(それを聞いた著者のハッとするような思い→)

物理的には同じ場所に立っていたのだとしても、その場所に与える意味次第では

全く異なる経験をしていることになる。…

彼ら目の見えない人は「道」から自由だと言えるのかもしれません。

脳の中に余裕がある?

(木下さんの言葉→)

「見えない人はある意味で余裕があるのかもしれないね。

見えると、坂だ、ということで気が奪われちゃうんでしょうね」…

まさに情報の少なさが特有の意味を生み出している実例です。…

目の見える私たちは)木下さんの「頭の中のスペース」がほとんどありません。

私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか

めまぐるしく注意を奪われながら、人は環境の中を動かされていきます。

人の進むべき方向を示す「道」とは、「こっちに来なさい、こっちに来てこうしなさい」と…

スーパーの「本日三割引き」に引き寄せられ、よけいな買い物をしてしまう…

その欲望がもともと私の中にあったかどうかは問題ではありません

視覚的な刺激によって人の中に欲望がつくられていき、気がつけば「そのような欲望を抱えた人

になっています。…スマホなどにもこうしたトリガーが。

見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです

(ある見えない人の言葉→)

えなくなったことで、そうした目に飛び込んでくるものに惑わされなくなった。

つまりコンビニに踊らされなくなったわけです。…

「見えない世界の新人」のうちは、どうしてもこれを欠如としてとらえてしまっていた

 

 

   


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 初めのエピソード、大岡山は、やっぱり『山』なんですね

という木下さんの言葉を聞いて、著者は

物理的には同じ場所に立っていたのだとしても、…全く異なる経験をしている

ことになる」と思ったという。

 

 客観的には同じ経験をしても、経験者本人の見える/見えない」の違いにより

全く異なる」のだということに私も本当に驚いた。

(想像さえしたことがなかった。

 

しかしよく考えてみれば、見える/見えないに関わらず、基本的には「人それぞれ」、

個人個人だから、その「経験」は同じでも、その人の「体験」として見れば同じということは

あり得ない

同じ経験をしたからといって、感じ方、受けとめ方まで同じだとは限らない。

家族、友だち、仲間だからと同様に「共感」したと受けとってはいけないのだ。

(ある本に「共感」の落とし穴のようなことが述べてあったことを思い出した

「共感」する、しないを対立的に捉えれば「分断」の原因になってしまう》

 ーー

 目が見えない木下さんは大岡山」への正しい「、ルートという情報選択に

惑わされることがないので、逆に、その」から自由だと言えるのかも…

 

(「選択の自由は多いほうがよい」とは必ずしもいえない。

あまりに選択肢があると選ぶのが面倒くさくなり、かえって「不自由」だと感じてしまう

面倒くさがり屋の私のスマホにダウンロードされているのは「歩数計」だけ

 

 その「自由」は感覚的なもので、正確には「自由」な感じというべき

かもしれないが、木下さんの「見えない人はある意味で余裕があるの

かもしれないね。見えると、…気が奪われちゃうんでしょうね」には

うなずかされる。

 

見えない人はある意味で余裕がある」というのは飽くまでも「ある意味で」あり、

では白杖を細かく動かして注意を集中して歩く。

見える人見えるさまざまなものに「気が奪われ」る。

それは「気が散漫になる」ことで、余裕が」ない状態)

 

 著者は思う

脳の中では 見えない人のほうが「自由」なのかもしれない。

 活き活きと、よく見えているのかもしれない 

 

 

   


ーー

私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか

にはすごく考えさせられた。

 

 私たちの日常(いまの自分はのんびりしており忙しい方にはすみません)は、まさに

めまぐるしく注意を奪われながら、…環境の中を動かされていきます。

人の進むべき方向を示す「道」とは、「こっちに来なさい、こっちに来て

こうしなさい…

 

-「人の進むべき方向を示す「道」」-

大岡山」の話は、木下さんは大岡山」という小高い丘を「道」として

通るけれど、目が見えないから、すでに存在する具体的な道(ルート、コース)

縛られる、こだわることがない。

 だから、歩くのにおもしろくなる、楽しくなる「」を自由に選ぶ。

(必要ならば勝手に「」をつくってしまう)

 

 目の見える私たちは、見えている世界、生きている社会で作られ育まれた

こっちに来なさい、こっちに来てこうしなさい…」と、既成の、コース

レールを走らされている。

 

(「既成のコース…走らされている」といったけれど、何も生き方のような大きい話ではなく

現代の生活に不可欠になってきた便利グッズを持つ、その恩恵に与かるような些細な話も含む。

 

私も従来のガラケーは使えなくなるというのでやっと1年前、スマホを持った。

不器用な自分でも若ければマシなのに、この歳では電子機器の使い方、操作の仕方には戸惑い、迷う。

先日、家のガスが急に止まった。すぐガス会社にスマホで電話した。

すると、係りの人の生の声はせず、録音音声が「〇〇などは3を、△△などは4を…」と指示する。

それに従って操作するけれど、操作した先でまた□□の場合は1を、××の場合は2をとのたまう。

だけどこっちの指先はスマホ画面の細かい操作ができにくく、自分の情けなさにも腹が立つやらで

操作を止めた。

 

止めてもガスは出ないのでツレに操作してもらい何とかなった。

自分ひとりだったらと思うとゾッとする

ーー

見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです

 

私には「情報量がすごく少ない」でも構わないが、少な過ぎても困るので

「ほどほど」「身の丈」がよい。

 

 

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                         ちりとてちん

囀りに 色あらば今 瑠璃色に  西村和子

     

 

 

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