今日は、本で「感覚 読む手、眺める耳」と書かれているところです。
(これで終わりのつもりでしたが書き足りず、もう一回「最後」を書きます)
これまで漠然とではあるけど、「見えない」こと=「たいへん」なことだと、
自分が「見える」ので、その立場から勝手に決めつけていた。
(ここを読み、大いに反省させられた)
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「視覚は情報の約8割を占める」とはよくいわれることだ。
そうならば、「見えない」人は聴覚など残された感覚をフルに活用し、
残り2割の情報だけで生きておられることになる。
ということは、視覚の8割の情報がなくても生きていくのに困らないわけだ。
(見方を変えれば、8割には無くてかまわないもの、不要なものが含まれていることになる。
そればかりか、不要なものがあるせいで、そっちの方に目をとられ、肝心なものが
見えなくなっていることがあるのかもしれない。
コロナのとき、どうでもいい、無くてもよい仕事「をブルシット・ジョブ」と言い、
反対に生きてゆくためには必要不可欠な仕事を「エッセンシャル・ワーク」と言うことを
初めて聞いたことを思い出した)
そう考えると、「見えない」人を「たいへん」と決めつけるのは
失礼なことではないかと思えてきた。
(中途失明の方は「たへん」では表現できないほどの苦難があったはずに違いないが)
先天的な「見えない」人は、そもそも「見える」という感じがわからない。
きっと「見える/見えない」を(比較することがなく)超越した状態で、
「見える」者のいう「たいへん」な思いはない(というか持ちようがない)のだと
思う。

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「〈感覚 読む手、眺める耳〉
聴覚など視覚以外の感覚の使い方が、見える人と見えない人では違っているのです。
見えない人は「特別な聴覚や触覚を持っている人」(ではない)…
確かに見えない人は、聴覚や触覚といった視覚以外の感覚を積極的に用いています。
見える人が使っていないような仕方で、それを使っているのも事実。
…
特別視(見えない人の聴覚や触覚が見える人より優れていると思うこと)がもたらす二つの問題
ひとつめの問題は、「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす
蔑みの目線があることです。
「すごい」は単なる「すごい」ではなくて、実は「見えないのにすごい」ということ…
(著者は)「面白い!」と言うようにしています。…
私たちはつい「見えない人」とひとくくりにしてしまいがちですが、実はその生き方、
感覚の使い方は多様なのです。…特別視は、この多様性を覆い隠してしまうことに
なりかねません。
…
耳で「眺め」、状況を把握する
「眺める」は、すぐに必要のない情報をキャッチする働きだとしても、
状況把握には必須の認識のモードなのです。
視覚障害者は、「特別な聴覚」を持っているわけではなくて、
見える人が目でやっていることを、耳でやっているだけなのです」

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「聴覚など視覚以外の感覚の使い方が、
見える人と見えない人では違っている」
「見えない」人は「特別な聴覚や触覚を持っている人」ではないことを、
ちゃんとわかっていなければならないとつくづく思った。
「「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす
蔑みの目線があ」り、「「すごい」は単なる「すごい」ではなくて、
実は「見えないのにすごい」と」
思っていること、には考えさせられた。
パラリンピックでの選手さんの活躍に単純に「驚嘆」しているつもりだが、
その心理の奥底には…「蔑みの目線」「差別心」のようなものがない、とは
断言できないと思った。
(最初に書いた「見えない」こと=「たいへん」なことという決めつけ、思い込みも、
裏返せば「蔑みの目線」とのなせるわざだといえないでもない。
客観的な人間の姿、社会の現実が「差別」に見ているので、心の奥底に「人を見下す」
差別的なものがあるのは当たり前だと思う。
大事なことは、そういう自分の中の差別心を自覚することだと思う。
自分の心の闇に向き合うのはイヤだけども…)
「すごい!」を「面白い!」と言う著者の発想は「面白い!」。
これこそ言葉の力。
(言葉を少し変えてみるだけで、心が軽くなりそうな気がする)
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「耳で「眺め」、状況を把握する」
「眺める」というのは、「見える」人にとっては確かに余裕のある行為で、
「すぐに必要のない情報をキャッチする働き」だが、
「見えない」人にとっては「必須」「不可欠」の行為だから当然、
聴覚が鋭くなり、「情報をキャッチする働き」ということでは視覚に匹敵する。
「耳で「眺め」、状況を把握する」ことになる。
「見えない」人にとって、「耳で「眺め」、状況を把握する」ことは、
「見える人が目でやっていることを、耳でやっているだけ」とのこと。
そう、普通のことなんだ。
聴覚そのものが「特別な」造り、出来をしているわけではないのだ。
〈オマケ〉
ずいぶん昔のこと。『名もなく貧しく美しく』という映画を見た。
それは聴覚障害の家族の物語だった。
すごく感動した思いを残したく、ちょうど産まれた季節がそうだったこともあって、
自分たちの子どもの名前を主人公からとって「秋子」にした。

ちりとてちん
春愁や 眼鏡は球を ふけば澄み 上村占魚