『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(吉川浩満・著)
すごい本だった。
「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という題名は、
「より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体が
すでに知られているばあいにだけ、理解することができる」
というマルクスの言葉をヒントに著者が考えたもの。
本は、地球に生きるすべての生物のうち、いちばん進化したものが人間、人類、
その「人間」そのものについての最新の見かた、考えかたの紹介と、それらへの
著者の態度が述べられていた。
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読んですぐ、南米コロンビアのデザナ族の言葉(9月23日の記事で紹介)を思いだした
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「人類が生物系統図でいちばん上におかれているから、
人間や動物、植物、自然界にある太陽や風にさえもいのちの存在を認め…
それら全体の間にいのちの交流があり、その交流が途絶えることのないよう、
人間は自分達の行動を律しなければならない」
(先日、ロシアのミサイル弾がポーランドに墜ちてふたり亡くなった。
ほんとうにロシアかどうかの話もあるけれども、誰が発射したにしても人間いがいの生きものが
こんな極悪非道、残忍をはたらくはずない。人間だからこそやった。
デザナの人々が知ったらどう思うだろう?)
私はいまではすっかり、人間を「高級なもの」とは思わなくなったが、
この地球の片隅で「すみっコぐらし」のようにひっそり生きているデザナ族の
ような人々がいることを知り、「高級な」人々もちゃんといることがわかって
ほんとうによかった。
「人類が生物系統図で…」だから「自分達の行動を律し…」という論理、理屈は
子どもでも理解できるけれど、二つのいわれていることをつなげて考えてみる
ということを、私はこれまで一度としてしたことがなかった。
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現代の科学技術の進歩・発展はあまりに凄まじく、科学は新たな学問をうみ出し
技術はそれを上まわる勢いで進展をとげつつある。
著者は、これまでの人間観そのものを疑問に感じさせるくらいという意味のことを
述べていた。
具体的には、
「進化にかんする科学としては、遺伝子の観点から進化を説明する血縁淘汰説(利己的遺伝子説)に
もとづいて人間の精神と身体、思考と行動、文化と社会を解明しようとする社会生物学、
人間行動生理学、進化心理学など…
認知にかんする科学としては、人間に特有の認知の偏りの数々を明らかにしてきた認知心理学や
行動経済学、コンピュータを用いた認知研究から生まれた人工知能研究など…
テクノロジーについては、まず、ゲノム編集やiPS細胞作製をはじめとするバイオテクノロジー…
認知にかかわるテクノロジーとしては、(→人工知能関連技術 ナッジ)…
近年、「ポストヒューマン」という言葉をよく聞くようになった(→文字どおり「人間以後」)」
(本のなかで述べられていることには慄然としたけれど、「さもありなん」という気もちになった。
たとえば、
「そうした知識と実践を目の当たりにして人びとは、…
人間がお互いを道徳的配慮の対象として尊重しなければならない根拠はなにかということについて
根本的な疑問を抱くようになった」
人間のあり方、人間と自然の関係について大昔から世界中でさまざまに語られてきた宗教や神話などの
調和的、祝福的、おめでたい話は疑ってみる必要があるのでは…ということ)
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しかし、どれほど科学技術が進化、発展しても、人間が生物であることをやめない
のならば(「不死」の夢をかなえたらヒトではなくなる)、どこまでいっても人間は、
「生物系統図でいちばん上におかれている」わけであり、
デザナの人々のような思い、考えをもって生き、「高級な」動物とならなければ
ならないのではないだろうか。
人間自身が自分のことをどう考え、どう思うという科学、学問の問題より、
生きものとして…という立場をわきまえる方がずっとずっとずっと、
根本的にだいじだと思う。
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平々凡々と生きている庶民の私たちだからこそ、何がだいじで必要、
なにが幸せかよくわかる。
「生きものとして」ということでいちばんに思いうかべるのは「自然」だ。
(「シンクロした」というのはこういうことを指すのだろう。
この記事を書いている頃、ちょうどテレビ録画していたフランス制作の自然保護活動についての
ドキュメンタリー番組をみた。
それは、これまでの自然保護活動に限界を感じた人々による、「自然にも権利を」という新たな理念、
考えかたの自然保護を紹介したもの。
「自然にも権利を」とは、まさに先のデザナ族の言葉、「人間や動物、植物、自然界にある太陽や風に
さえもいのちの存在を認め…」にほかならない。
番組は、自然はものを言えないので自然然の気もちに共感できる人が、自然になり代わってものを言う
以外ない、そのために裁判所に訴えるという新たな自然保護活動を報じたもの。
「権利」という法律概念を、人間や社会だけではなく自然にも認めようという。
自然保護活動に熱心な法律家、弁護士たちと協力して「森」や「川」、「サメ《魚》」「サル」」
など自然も「法的人格」があると認め、その保護を裁判所に訴える。
《「法的人格」=「法人」は、現在では会社や宗教団体、医療、私立学校、社会福祉、NPOなど
さまざまあるけれど、人間の団体、集まり、組織が法律上の「人」として認められるまでには
たいへんな苦難があった。それが今ではあたり前になっている》
番組スタッフのインタビューに応え、どんなに時間がかかっても、私たちは「自然にも法的人格」が
認められるようになるまで国や社会に働きかけますと力づよく述べていた人々の姿がステキだった》
〈オマケ〉とても些細な話だが、番組でオランダやフランス、それに南米エクアドルの裁判所法廷内が
画面に映しだされた。
裁判官の席が法廷の人たちみんなと同じ高さだったことが妙に印象にのこった)