今日は第6講と第7講。
(最終第8講は次。
今日も述べられていることのうち、とても強く刺激されたことだけに触れます)
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「第6講 ブルトシップ・ジョブが増殖する構造
(「マネー資本主義」といわれているように現代の資本主義は)
金融、保険、不動産の比重が高まる…
現代の資本主義は「レント資本主義」(でもある)
もともと自然のめぐみとして存在する土地にはそれ自体の価値が存在します。…
(封建時代の「レント(地代)」が変質し)概念がより拡張され抽象的になる…
(「土地」はそもそも「大地」として誰にも開かれた共有地、みんなのものであったのに、
「囲い込んで」特定の誰かの所有物となった。それがそもそもの不平等、根本の過ちの出発点。
その後の社会は土地だけでなく「《特定の》個人の所有」ということをすべての前提として成り立ち
「契約」やら「法」でややこしくされ、いまは)知的所有権への使用料や手数料による取引など
「ブルシット」の温床(となっている)
…
〈東京五輪とブルシットの力学〉
政府はかつて公共あるいは行政に属していた機能を「市場原理」の導入によって「効率化」する
との名目で、大手広告代理店などに委託しています。…
(そこでは「大手広告代理店など」がどんなに悪どい不正をしていたか、「東京五輪」という国民の
血税によって成り立つ国の行事がブルトシップであったことだろうか!
《「大阪万博」と聞くだけで反吐が出そう。維新はその跡地にカジノを作ろうとしているが、
そっちが本命で、万博はカジノ実現に向けての「地ならし」みたいなものだろう。
大谷翔平選手のトレーナーがギャンブル依存症であることを本人自身が明らかにしていても、
私だけが知らないのかもしれないが、ギャンブル依存症の危険性がマスコミで話題にはなっていない。
個人の病気より経済の方が大切なのはブルトシップの発想》)
ハリウッドなどでの謎の肩書の上司(「なんとかエグゼクティブ」という肩書の、不要な仕事の連中
が「うじゃうじゃ」といる)
…
第7講 「エッセンシャル・ワークの逆説」について
「割に合わない仕事」を「シット・ジョブ」と呼びます。
(「シット・ジョブ」を日本語でいうと「クソ仕事」。
「割に合わない」とは実質の中身が正当には評価されていないということ。
「エッセンシャル・ワーク」が社会に必要不可欠な「尊い」「大切な」仕事といわれても)
市場価値と実質的価値には乖離がある…
(つまり、資本主義社会では「社会的価値と市場価値の反比例」という実態が存在する。
「エッセンシャル・ワーク」があれだけ注目を浴びたという事実。それが、コロナ騒ぎが沈静化した
現在、ウソのように忘れ去られている。
医療・教育など以外の「エッセンシャル・ワーク」の労働者が、自分の仕事を「シット・ジョブ」
「クソ仕事」と自嘲気味に感じざるを得なくするこの社会こそ、ほんとうに「クソ」だと思う)
…
〈労働とはなにか〉
(キリスト教では、「労働」は)罰であり、苦痛(だとされるが)無からなにかを生みだす創造
(的な仕事、(すなわち「生産」にたずさわる労働は)それ自体で価値があるとされる…
(ところが、「エッセンシャル・ワーク」は)かなりの部分が、モノの生産ではなく、
モノや人のケアの次元にかかわっている…
資本主義が生まれ工業化が進むと「モノづくり」という面が重視される
…
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■ 「ブルトシップ・ジョブ」
自分の生きている日本を見わたせば、不平等な世の中と感じざるを得ない。
「不平等」「格差」の存在は、個人こじんの努力(だけではなく運・不運もあろうが)
の結果なので(無意識のうちに)当然のこと。
同じように(どこかの国から攻められたとき、それを有していなければ自衛もできない、
またアメリカなど自由主義国の応援もできないので)軍隊を持つことは当然。
「ブルトシップ・ジョブ」は、まさにその不平等や軍隊を必要不可欠と思わせる。
公正ではないこのクソ社会の体制を維持し続けていくために存在していると
私も思った。
(究極的には軍事力・警察力などの暴力、物的権力に頼りながらも、表面、うわべだけは紳士的、
「法治国家」と飾り立てられる。どちらにも「ブルトシップ・ジョブ」は絡んでいる)
現在の自分と社会のあり方を疑う、問う(他のあり方を想像してみる)ことを
してみない限り、現状・現実の世界(クソ社会)に埋没するしかない。
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■ 「エッセンシャル・ワーク」
〈労働とはなにか〉の部分、「(「エッセンシャル・ワーク」は)かなりの部分が、
モノの生産ではなく、モノや人のケアの次元にかかわっている…
資本主義が生まれ工業化が進むと「モノづくり」という面が重視される」には
とても強い刺激を受けた。
「シット・ジョブ」はその人生や社会への意義が「正当には評価されていない」
「割に合わない」仕事。まさしく「人のケア」。
(私はすぐに介護の仕事、介護労働を想った。
終りの第8講で詳しく触れられます)
うぐひすの 音のすべりくる 畳かな 正木ゆう子