カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2026.9.8 河童に選挙権を!

 今日は3回目。終わりです。

⑮河童に選挙権を! 

⑯大震災の「失せ物」 

ありえなかったはずの未来-「感情史」としての民族学

の三つの話。

 

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「● 河童に選挙権を!

うしろめたさ共有

「怨霊」や「御霊」の性格を、民族学の立場から明らかにすることに、

柳田(国男)は情熱を傾けた。…

その対象は、「縁者なきものの亡魂、他郷で死去したものの死霊、

遭難・事故・自殺・戦死など非業の死をとげたものの亡魂…」だった。…

こうした「霊」たちが集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが

河童は「日本の妖怪」たちの象徴です。

柳田国男の著作より)国家は現存生活する国民のみを以て構成するとはいいがたし。

死し去りたる我々の祖先も国民なり。

その希望も容れざるべからず。…将来生まれ出ずべき我々の子孫も国民なり。

その利益も保護せざるべからず

柳田は死者や精霊も社会の一員だと訴えていたのである。…

死者の集合体である河童に、政治参加の機会を与えるべき

 

「● 大震災の「失せ物」

忘れようとしても思い出せない

(この不条理発現→)記憶を忘却し、失ってしまうことに対する不安を、

これほど不気味に表わした言葉は、ほかにないだろう

心が落ち着かなくなる言葉だ

 

「● ありえなかったはずの未来-「感情史」としての民族学

(ここからの「」は柳田国男より)

「民族学の”本意”

民族学では「元はどうだったか」「いつからこれが始まったろうか」「どうしてこういう風に

改まったとうか」ということ、「時の推移」ということを、大きな要素にして現代を考える。

さらに、民族学は「今はもうなくなったもの」を、「現に目の前にあるもの」と同じように

注意する。…

「いくぶんか珍しくなりかけたもの」を拾いだし、「歴史の過程」を明らかにする作業」

近代日本の感情の歴史

人は問題によって他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが

我々に属する限り、純然たる彼等の事件というものは、実際は非常に少ないのである。…

国民としての我々の生き方が、どう変化したかの問題があるのである」…

「歴史は多くの場合において悔恨の書であった。

あの際ああいう事をしなかったら、こうも困らずにいられたろうという理由が発見され、

それがもう完結して後の祭りとなっているのであった

多義性と可能性

(民俗学では「ハレ」と「ということがよくいわれるけれど

非日常ハレと日常の転換や境目は、それほど明確なものではない。…

民衆を襲う災害や戦争は間違いなく非日常ハレとなってしまう

わたしたちの生活にはハレと並んで「後の祭り」というべきものがある。

民俗感情の公共化

知性以前の感情が個人や家族にとどまらず共同のものとなったとき、

民俗感情が「公共化」されるといった。

そうしたことが繰り返されることによって、幽霊は「伝説」「伝承」として公共化されていく…

妖怪が現れることのは社会が必要としたとき(「妖怪」も公共化される)

 

 

    

 

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● 河童に選挙権を!

うしろめたさ」の共有

 

 河童は「河童」で「日本国民」ではないので選挙権はないけれど、

無数の「縁者なきものの亡魂、他郷で死去したもの…、遭難・事故・自殺・

戦死など非業の死をとげたもの」の犠牲、死の歴史があっていまがある。

 そういう死者たちにも、政治に参加する権利を!

             

                 (グーグル画像より)


柳田国男というと私は読んだこともない『遠野物語』しか思い浮かばないし、

柳田国男がこんなすばらしい考えを持っていたとは知らなかった。

それを深めた著者の「河童に選挙権を!」という発想に拍手喝采した。

 

河童」は死者たちの象徴だ。

いま生きている者は、たまにでいいから、自分が「いま生きている」ことを、

「生かされている」というふうにも思い、考えてみることが大事ではなかろうか。

私たちは、いまの日本という社会が平和であるからこそ「生きている」。

その平和は、無数の人たちの死の上に成り立っていることを思ってみなければならない。

ちょっとうしろめたさを感じながら

 

 柳田国男の

国家は現存生活する国民のみを以て構成するとはいいがたし。

死し去りたる我々の祖先も国民なり。

その希望も容れざるべからず。…

将来生まれ出ずべき我々の子孫も国民なり。

その利益も保護せざるべからず

 何度も読み返した。

 

(戦後81年が過ぎ、戦争で酷い目に遇った方たちがあちこちで「戦争をしない」ための活動を

続けてこられたが、生き残った方が少なくなり、今後どうしていくかと悩んでおられる。

そんなニュースをよく聞く。

しかし、よく考えれば、あれから81年以上も経つのに、未だ「戦争をしない」ための活動を

続けなくてはならないこと自体がオカシイのであって、そうしなければ平和が失われる、

また戦争が起きるのではないだろうかという不安が、非戦、不戦、反戦の活動を

続けられるのだろうか?

現在の日本が「戦争をする」国になりつつあるという不安、危機意識が、かろうじて

日本の「戦争突入」「参戦」という「後の祭り」になることを防いでいるのではなかろうか?

絶対、「後の祭り」にしてはならない!)

 

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 大震災の「失せ物」

忘れようとしても思い出せない

 

 初めて聞いた言葉。

 一度聞いたら忘れ」られない。

 

 あまりに不条理な耐えがたい辛さを味わった人の心は

コトバでは言い表せないのだろう。

 それをあえて言うなら、言っている当人でさえ何を言っているのかわからない、

不条理な言葉にならざるを得ないものなのだろう。

 

 当事者以外の人は、想像はできても、共感はできても、

自分も同じ目に遇わないと実感できない。

 善意から、励ましの言葉であることは間違いないけれど、「ガンバレ!」と

私は言ってはいけないと思う。 

 

    

 

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ありえなかったはずの未来-「感情史」としての民族学

 

人は問題によって他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、

しかも疑惑と好奇心とが我々に属する限り、

純然たる彼等の事件というものは、実際は非常に少ないのである。…

国民としての我々の生き方が、どう変化したかの問題があるのである」

歴史は多くの場合において悔恨の書であった。

あの際ああいう事をしなかったら、こうも困らずにいられたろうという理由が

発見され、それがもう完結して後の祭りとなっているのであった

 

 とても考えさせられた。

人は問題によって他人にもなれば、また仲間の一人にもな」り、

純然たる彼等の事件というものは、実際は非常に少ない」。

 

 自分は絶対あんなサギ、ハレンチ、残虐…はしない、といっても

その他人と利益が一致したら、他人の多くがしていたら、その仲間の一人になる

かもしれない。

 およそ社会に関わる事件、出来事は、何らかの形で(責任を問えるようなものでは

まったくなくても)多くの人たちに関係している。

 

後の祭り

それがもう完結して」おり、後の祭り」でやり直しがきかない、ということの重さ

恐ろしさをすごく感じた。

(確かに戦争は「非日常」という意味では「ハレ」なのだ。決して日常、「」ではない。

河童」もそうだけど、著者のこういう眼、見方にハッとさせられた)

 

 

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                        ちりとてちん

足投げ出して 秋雨の底にゐる 津田このみ

 

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