第3講は「ブルトシップ・ジョブはなぜ苦しいのか?」
好きなことも我慢し、苦労し、難関突破の職業に就いて高給取りになり、
(物質的には)贅沢な暮らしができるようになった。
けれども仕事は忙しく、神経をすり減らし、疲れ、虚しさを感じ、辞めたい
と思うようになった。
(このままの状態を続けるか? 辞めるか?
一回限りの人生を思うと、複雑…)
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「ブルトシップ・ジョブはなぜ苦しいのか?」
人は「愛」、「自由」「平等」に生きるとか、「自分のため=他人のため」とか、
人生に存在感を感じるとか、(人それぞれにしても)ともかく生き甲斐につながること
を求めて生きている。
(もちろん「生きる」ことに目的や意味はいらない、と言う人だっているだろう)
だから、ここでは〈「おいしい」仕事を辞めるなんてバカ野郎?〉と問う。
(いくら給料が多くても仕事にやり甲斐が感じられず、人生が虚しいと言ってその仕事を辞める人は
「バカ野郎?」なのかと問題を投げかける)
世界中から寄せられた「BSJに共通する苦悩」の声は、自分の仕事を
「無目的」「虚偽」だと感じている。
自身の内面をあざむき、心、精神を傷つけている、つまり苦しんでいる。
(50年も前の自分たちの話。ツレが子育てのためにやむなく一時のアルバイトで働いているとき、
先輩同僚に「アフター5に生きる」、仕事は食ってゆくための手段と割り切り、
その日の仕事が終わってからが「自分の本来したいこと」の時間帯だと生き生き輝いている方がいた。
若かった私たちは「こういう生き方もあるか」と感心した)
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ここからが今日の主な話。
次の第4講 資本主義と「仕事のための仕事」
「①〈普遍的な仕事のあり方〉
労働は、だれかがじぶんの時間を買ったことだ、だから、その時間内は労働しなければならない
-たとえすることがなくても-という発想は、決して普遍的なものではありません。…
→人類の歴史ではきわめてマイナー
(本来は)必要なときに集中的に仕事をして、それ以外は、ぶらぶら…好きなこと…寝ているといった
ありよう…
これが自然な人間の労働の姿だった
…
〈②「時間指向」と人間の限界〉
(封建性社会において)働く人たちは、政治的にはどれほど従属していても、働く現場においては、
みずからの才覚と裁量を発揮できる余地が多かれ少なかれあったのです。…
中世末期には農民の余暇時間が大幅に拡張していた。…
労働過程のイニシアチブはじぶんが握りたい→「自営」への願望
…
〈③「自由」になった労働者たち〉
(資本家、経営者はチャップリンの有名な映画『モダンタイムス』に見るような「科学的管理法」を
あみだした)労働者は賃金や保障の面での向上を得(たが)「消費者」になった。
(これを「フォーディズム的妥協」といい)労働組合からアナキズムの影響が薄れた…
(ますます)「お前(労働者)の時間はオレ(資本家)のもの」(となって)
「仕事のための仕事=雇用目的仕事」(が増大する。つまり、あってもなくてもいいような
ブルトシップ・ジョブがつくられていく)…
労働組合の要求は(それまで)賃労働からの解放もにらみながらの自由時間の増大を指向していた
(のに、20世紀に入って)労働条件をよくして、雇用を拡大するといった方向へとむかいます。…
じぶんたちの取り分を大きくするといった指向性にシフトします。
(つまり、金持ちをもっと金持ちにすれば貧乏人もおこぼれにあずかれるという「トリクルダウン」
を真に受ける。実際は「格差拡大」し、BSJは増殖する)
…
〈④「人間とはなにか」という問題〉
「経済人」は近代資本主義社会の神話でしかない…
近代経済学にもっとも批判的な人類学(から言えば近代経済学は)
「コストパフォーマンス」ということにもっとも敏感…
(その基礎には)「人は放っておかれるならば、だれしも最小の資源と最小の労力の支出で、
みずからの欲求するものを最大限に獲得できる行動を選択する」
(という「ホモエコノミクス的人間観」がある)…
日本社会では、幼少期から規律的意味しかない無意味な規則や挙動を長時間強いられることで
「ブルトシップ・ジョブ」への耐性がよそよりもあるといえるのかもしれません。
…
〈⑤豊かな社会-最小の労働と最大の余暇〉
(人類学のフィールドワークは「人間」について、近代・現代人の生き方しか知らない私たちに
根本的な疑問を投げかける。その大きな一つ)最小の労働と最大の「余暇」のなかで生きられる
「豊かな社会」(では)必要以上のものためには働きません。」
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引用の5点はほんとうにわかりやすいし、どれも深くうなずきましたが、
〈③「自由」になった労働者たち〉だけ感想を書きます。
■ 「労働者は賃金や保障の面での向上を得(たが)「消費者」になった」
(これを「フォーディズム的妥協」といい)労働組合からアナキズムの影響が薄れた…
■ 「(ますます)「お前(労働者)の時間はオレ(資本家)のもの」(となって)」
■ 「労働組合の要求は(それまで)賃労働からの解放もにらみながらの
自由時間の増大を指向していた(のに、20世紀に入って)
労働条件をよくして、雇用を拡大するといった方向へとむかいます。…
じぶんたちの取り分を大きくするといった指向性にシフトします」の3点。
(今日はこのうち初めの■1点のうちの「消費者」だけ)
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「「消費者」になった」ということは深い意味があることを、
私はこの歳になって強く感じるようになった。
(歳を重ね、モノゴトへの欲望が大きく減ったからだと思う。
別ないい方をすれば、人生で何が大事という人生観・価値観が、目には見えないもの、
心や精神的なものへと大きく変わっていったからだろう。
《個人的には障害者になったことが断然大きなきっかけとなっている》)
私たちが普通「消費者」を口にするときは「生活者」くらいの意識しかなく、
(ニュースでも大きく取り上げられたように)いまのように多くの商品価格が波のように
目に見えるほど上がらないと、あまり意識することがない。
(というか「されない」。
「300円」や「500円」が増えたとはいっても例外で、まだまだ「これが100円!」と驚く商品は
100円ショップの店に入ればいろいろ、いっぱい並んでいる。
《値上げの波はまだ100円ショップには届いていないのだろうか?と疑ってしまう。
一般スーパーの商品と同じように量や質を落とすことで消費者をダマしているのだろうか?》)
こういうときは、私たちは(私のような者でさえ)家計に敏感になる。
(高い商品は避け、少しでも安いものを見つける努力をする。
《値段にお気楽だった私も菓子を選ぶとき、特売かどうか10円以内の差にも目を配るようになった》
なければなくてすむ物と欠かせない物を見極める。
耐久ものはより長く使え続けられるようメンテナンスにも気を配り、大切に扱う。
新品でなくリサイクルですむ物はそうする)
資本主義社会ではモノ(目に見える商品)やコト(公務、飲食、観光、旅行など目に見えない
サービス)の生産-消費で成り立っているという原理、システムを考えてみる。
と、人々が消費してこそ成り立っているという(当然の事実ではあるが、普段はほとんど
意識しない)ことに気づく。
資本主義はどんどん消費されてこそ生産ができるし、システムも維持される。
(商品《モノであれコトであれ》を人々、一般大衆が費やしてくれないと、次《同じものであれ
新商品・次世代であれ》を生産できない。
人々、一般大衆《労働者》も自分たちが働いて生産しているわけだが、《王様貴族の時代なら彼らが
主な消費者だった》いくら生産しても圧倒的に多い労働者自らが消費者として大いに振る舞わないと
資本主義経経済という仕組み・システムそのものが成り立たなくなってしまう。
生産したもの、作ったものは消費されてこそ価値がある、出るというものだ。
資本家・経営者・その取り巻きだけでは到底、消費し切れぬ、溢れるような商品の量と種類の数々。
私たち一般大衆を「消費者」にしなければならない。
商品を購入できるだけの賃金を出し、労働条件を改善しなければならない。
《で、今年の春闘は目立った賃上げがなされたたらしく、ニュースで報じられていた。
労働者の待遇改善は自分たち、資本家とそれに類する者たち、権力者のためでもある》
労働者の待遇改善で収入が増えても、資本主義の「ミッション」は消費。
お金を使ってもらわなければならない。
かくして、テレビのM、ネットの広告に見られるように欲望、物欲が刺激される。
欲は眠ったまま放っておいてはいけないとばかり、「開発」される。
《何年か前、インターネットしていると「あなた欲しいのはこれでしょうか?」と画面に
心をくすぐるようなメッセージが現れてビックリした》)
鐘の音を 追ふ鐘の音よ 春の昼 木下夕爾