kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2017.9.24 耳掃除

                                                  カメキチの目

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 耳掃除。耳クソをとった。

(私が読者になっている方で、たいへんなことで悩んでおられるというのに、こんな気楽な記事かいてゴメンなさい)

 

                     グーグル画像さんからお借りしました。

                      関連画像

 つい先日、ちょっと恥ずかしい話だけど、耳鼻咽喉科に耳掃除に行った。

 じつは2年前にも行っているので2回目だ。

  私の人生で、あくまで2回目のこと。  

「耳掃除」。子どもみたいで、通院にはちょっと勇気が要りました。お願いですから「それくらいのことで…」と笑わないでください。

コトここにいたるまでには、いろいろあったのです。

「いろいろ」とはいっても、要は、家での耳掃除は痛いということです。私はああいう痛さは弱い、苦手です。打撲とかは強い(と思う)。

(私の内耳の器官は壊れているのですが、耳自体の痛覚はあり、敏感なのです)

障害者となって手の感覚が鈍いので、だいたいはツレに耳掃除をしてもらっているのですが、こんどはなんどしても耳クソ(いえ耳垢)がしつこくこびりついているらしく、掃除のたびに私は拷問されてみたいに叫んでいた。「イタイ!イタタタ…」

あるときふと、1回目、つまり初めての耳鼻科での耳掃除を思いだし、行ってみようと決めた。

 

 決意しても、ウジウジ…2回目でも悩んだ。

「こんなことで医者に…。病気やケガでもないのに…。お医者さんに申しわけない。やっぱりやめようか」

 それでも彼女が「決意」を押してくれた。

 少しは(耳クソとれば)聴力もよくなり、なにより痛い思いをしなくてすむのだから、(耳クソが)たまり続けても身体に不都合は起こらないかもしれないが、ますます垢まみれになる。不潔なジジイになってゆく。

 それはイヤなので、やっぱり行くことにした。

 

 結果。

 初めてのときもそうだったが、痛くもなく、すぐに終わり、なんとなく自分がきれいになったようで、よかった。 

 ちょっと恥ずかしい気もちは、かかっている間ずっとあった。目も障害があるので顔まではよくみえなかったけれど、看護師さんが二人もおられた。私の耳をつつく先生を入れて計三名。

 患者の私はお客さんとはいえ耳クソ除去。大人が三人。「たかが耳クソに…」

 でも、してほんとうによかった。

 

  ところで、診療台からおりるときおずおず聞いてみた。

「先生、耳クソがたまると聴力に影響しますか?」

「これくらいでは変わりませんよ」

先生はまだ若い、といっても40代くらいの精悍とした男性で、やっぱり「耳掃除」だけの作業はやりがいがなかったようで、終始ぶぜんとしておられた。

看護師さんが私からとった耳垢がはりつけられた白い紙をまじめに指しだし「これだけありました」と言われたのが可笑しかった。

(家にかえってから、「しまった…あの紙、もらえばよかった」「写してブログに載せられたのに…」と言ったら、「誰が見るというの…気もち悪い」と返された)

 

 ちなみに1300円かかった。耳掃除に1300円。

 医者の耳掃除というのは、耳穴をパカッと大きく開き、ピンセットのようなもので皮膚に貼りついたヤツを引っぱがし、つまんで外に出すようだ。

 耳鼻科の耳掃除器具は、医者は儲けなければならないので、一般では手に入らないのだろうとは思ったが、ネットで調べたらどうやら売っているらしい。でも値段が…。

 これなら、3回くらいは行ける。4000円以内ですむ。

 器具を購入し、自分でやっていてうまくいかなかったら元も子もない。4000円ではおさまらないだろう。

そういうことで、購入はやめました。それよりか、かたくこびり付く前に、こまめに掃除することが、耳に限らずたいせつですね。

(言っておきますが、私は耳鼻咽喉科の回し者ではありません)

 

            

                 ちりとてちん

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2017.9.21 遊戯三昧

                                                  カメキチの目

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きょうは禅語を書きます。

          遊 戯 三 昧

              ‐ゆ げ  ざ ん ま い‐

 

 答えの出ないような問いと、答えになっていないような答えを、よく「禅問答」といいますが、禅のなかの禅ともいうべき中国宋代の古典『無門関』のなかに「遊戯三昧」があります。

「生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向って遊戯三昧ならん」

六道は衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のこと。

四生は四つの悟りの世界(声聞・縁覚・菩提・仏)のこと。

 

 遊び戯れに没頭するということ。

それはそれでいいのですが…

 単独で「遊戯三昧」ということではない。

 

『無門関』においては「生死岸頭に於いて大自在を得…」

 生きることに真剣になるのなら(とうぜん、それは「メメント・モリ」《ウィキペディアをみてください》の精神で生きること)自由自在な境地になる。

 そんな境地になれば、「六道四生」(よくはわかりませんが、「悟り」のようなものでしょうか)に向っては、重要だと信じていることも「遊戯」みたいなものであり、現実の態度は慎重、ていねいではあっても、「遊び心」を持つことは忘れまいということかな。

 

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 しょせん人生は思うように、望むようにはいかない。

 そんなあたり前のことだが、幸と不幸はコインの裏表のようなもの。どっちも半々、五分五分。

 あえて望みもしなかったことが実現し、Vサインすることもある。

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 しかし、たいていは思うようにはならない(かった)。願いはかなわない(かった)。と思っている。

 だから、不幸が幸より多かったと勘違いしてしまっている。六四または七三で不幸が勝つ(った)と。

 

 

生きてゆくなかでは、自分で選んだものでなく、選択する余地さえなかったことがいっぱいある。

たとえば、いついつどこそこのどういう家に、どんな体つきで生まれたとか、災害に遭った(100%自然が原因ということはないでしょうが)とか、障害者になったとか…

 それらは「不運」(と、自分が感じ、イメージしていること)ではあるが、きちんと受けとめ受けいれれば、「幸運」にもなれる。

 

私は、自分の身体がもとに戻ればなぁー、治れば…と思うことはしょっちゅうあるのですが、現代の医療では不可能だろうとわかっているし、それに長く生きてきたとも思っているのでこのままでいいかとも思っています。

かっこよく言えば「受けとめている」んですが、自転車を漕ぎ、自動車を運転している夢(寝ているときの)をいまだにみています。

 

                  ちりとてちん

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