kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2018.4.21 『面白くて眠れなくなる植物学』①

                                                  カメキチの目

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『面白くて眠れなくなる植物学』という本を読んだ。

 

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 眠れなくはならなかったが、「面白い」というのはほんとうだった。

 ほとんど難しい話はなく、おおかたは誰もが知っているような植物の話。

 しかし、「面白い」「楽しい」だけでは終わらなかった。

 

 あらためて、植物が人生にどれほどたいせつさかを痛感した。

こう言えばちょっと大げさですが、「人類必読の書」とまで思いました。

植物の存在は、私たち人間が「生きる」うえでどれほどだいじなことか(たとえばコンピュータ・人口知能やロボットがなくとも、私たちは生きてゆける)。

 

 本の「あとがき」に著者の稲垣栄洋さんは、こんなことを書かれていた。

「植物学」を学んでも生きていくうえで何の役にも立たない、つまり「実学」のような利用価値がないと思う人がいるかもしれない。

きれいなチョウチョを見ても「美しい」と感じず、「気色わるい」と感じ、かわいい子犬を見ても怖がる人もいる。けれど、花を嫌いだと言う人はほとんどいないだろう。

人は花を見ると(この前からブログでも花が「満開」でした)美しいと感じる。

植物は自分のために(つまり植物自身の将来にわたっての繁栄のために)、昆虫を呼び寄せ花粉を運んでもらうためにきれいな花を咲かせます。

けっして、人のためではありません。

でも人は花を愛します。花に癒される。

そればかりか、植物から私たちは「生きる力」を感じ、「生き方」を学ぶことさえできる

 

この「あとがき」の最後のさいごの言葉、「できる」。

「できる」か「できない」かは読み手の姿勢の問題だと思いました。

「できる」ようになるには「努力」がいる(なにごとも努力は必要ですが、私のように努力嫌いの人間がいるのは事実)。

しかし、植物を愛し、花を愛でるのは特別な努力をしなくても誰でもできる

「植物学」を専門的に学ぶというところまではいかなくとも、植物の姿から生きるエネルギーを感じ、生き方のヒントを学ぶことはできると思いました。

 

             

                 ちりとてちん

2018.4.17 慣れる

                                                  カメキチの目

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 先日の記事(「キャスターもツライよ」)に、敬愛する読者さんから、

まったく…よくもまぁ次々出て来ますよね^^;でね、わたしもそうなりつつあるのですが、一番怖いのが国民が政府の不祥事に慣れてしまうことではないでしょうか? 」

というコメントをいただいた。

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 それで、

「慣れ」ということに、あらためて思い、考えさせられた。

 

 よきにつけ悪しきにつけ、人は慣れる。

いま生物の本を読んでいるのですが、人だけでなくすべての生き物は環境に「慣れる」。「同化」できるから生命を維持できるともいえるのですね。

生物学では「適応」というのだそうです。

 

 問題は、これからも生きてゆくために何に対して

「慣れる」のか?(ということ)

 

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私は自分の障害に慣れたおかげで、できの悪いロボットみたいにぎごちないが、自分の足で(走ったり跳べはしないが)歩ける。

11年前、リハビリ訓練を続けたかったが、ちょうど国の医療制度が改悪され、おかげで追いだされるように退院せざるをえなかった。

リハビリ可能な新たな医療施設を探すのが面倒で(見つかったとしても通院・入所の手続きの煩わしさを思うとゲンナリ)、車イスを買い、自宅リハビリ…ということにした。

家での日常生活・起居全体がリハビリとなって壁伝いや杖の補助で自力で歩けるようになった(障害の身体に慣れ、歩けるようになり、せっかくの車イスは不要となった)。

目まいクラクラ、視界グラグラで気分が悪く、慣れない間は一日なんども吐いたが、こっちも慣れた。吐かなくなった。

×

歩くとき、バランスがとれないので小またになる。アヒルのようだ(アヒルは速いが、こっちはカメ)。これには慣れたくない。意識すれば人なみの歩幅に近づけられる。モデルさんのように颯爽と歩きたい(こっちに慣れたい)。

 

「慣れ」は、「習慣」という言葉があるように、繰り返すことで一種のパターンとなった(いわゆる「ステレオタイプ」)

とくに何も考えなくて自然と身体が反応する。意識しないで行動できる。

 いまも動作は(客観的に)すごくノロいけれど、ノロいことにも慣れた。

というものの-、ときどき、3,4歳の子もスンナリできることが自分にはなかなかできないことが情けなくてイライラ…っときます。

 

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 身体の動きのように、日常生活での「慣れ」はスムーズ、快適に生きていくための「よきこと」だけど、

政府、内閣のあんなデタラメは「悪しきこと」。

 けっして「慣れ」てはならない。

あんなウソに「慣れる」ということはないですが、

「あきらめる」という選択肢はありそうです。慣れはしないが、あきらめる。

「安部首相が辞めること」をあきらめる。

 

「あきらめ」には私もついつい惹きこまれる。

官僚の言いわけや首相の答弁を聞いていると、しょせんそういう世界の出来事とわりきり、「アッシには関わりねぇことでゴザンス。どうぞお好きなように…」とやり過ごしたくなります。

でも、 

 政治・社会の外では生きられない。

子どもたちに参政権はありません。

 あきらめてはならない。

アリエナイ話ではありますが、「オマエは総理大臣になっても自分に都合のいいウソをつかないと約束できるか?」と言われたら、「私はウソはつきません」と言う。

(アレっ? さるお方も初めからウソをついていたわけではない。「権力」の座に長くついていると、そのことに慣れるのでしょうか

 

 

ちりとてちん

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