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kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2017.5.21 『世界【最終】戦争論』

                                                  カメキチの目

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 しょうじき、こんなに世の中、社会がぶっそうになったと感じたことはない。私だけの感想、思いこみではない。

正確には、政治的にです。

確かに昔はなかった新手の犯罪、オレオレ詐欺類やサイバー攻撃は増えましたが、これでぶっそうになったと言っているのではありません。ロシアや中国(だけでなく、より巧妙に行われているようなアメリカ)のサイバー攻撃は国の安全にもつながるようなものなので、怖いことはコワイ。

サイバー攻撃で核(兵器に限らず、原発も)が乗っ取られる、電車の運行管理システムが乗っ取られる、というのはまさか津波の高さのような自然災害と同じく「想定外」ということはないでしょう。

 私の17,8の思春期ころは、自分の人生に悩むばかりでなく、ベトナム戦争日米安全保障条約改定などがあり、社会にも目を向けるようになった。

皮肉なもんですね。こういう社会的な大きな悲しい出来事があったからこそ、というのは。

 以降、かれこれ半世紀近くは庶民のまなざしで社会、世の中をみつめてきた。

 

 先日、ビックリ仰天、ぶったまげた。

 安倍首相が「私の憲法改正の主張は読売新聞に書いています」「(知りたい方は)読んでください」(言葉どおりではありません)と述べたという。

 こんなこと、「独裁者」でなくして誰が言えるだろう。独裁者にとりいる大手全国紙、「読売新聞」(産経さんも自民に愛されているようですが、購読部数がだんぜん多い読売を相手には勝ち目がない)なくしてできただろうか。

・ちなみに私は新聞というのはどこも同じだとずっと思っていました(僻村の故郷は読売でしたが、読売と地元新聞しかなかったです)が、まるで違うこともあるということを、社会へ出てから知りました。事件・事故などの客観的な出来事報道はだいたい同じでも、政治・経済などの社会的論評(社説など)になると新聞各社の主観が入り、違いが如実に表れること。                   

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・私は安倍首相を独裁者よばわりしましたが、ここで「独裁者」の正確な定義の論議なんかどうでもいいです(こちらは学者・先生ではないから)。

ただ、私は「独裁者」というのは、なにもヒトラースターリン金正恩のような人物だけを指すのじゃないと思っています。

・いくら現行憲法改正自民党が党是としているからといって、首相=自民党総裁、内閣も所属党もトップだからといって、こんな勝手がゆるされるのでしょうか(党内論議をした上での党としての表明とした発表したものではありません)。

党という目的を(だいたい)同じにした集団を超えて、トップが私見を、しかも一般の大衆新聞に載せる。

これが「独裁」行為でなくて何でしょう!(こういうマネが一般党員にできますか?)

ここまできたか!

(しかし、自民党はシ~ンとしずまりかえっているようです《だいぶ日がたって、苦言を呈した議員がおり、ガンバってほしい》。目だって逆らい、損するくらいならいいが、ひどければ「粛清」(殺されなくても除名処分)されるかわからない。まるでかの国みたいです。みんな「忖度ゴッコ」に余念がないのでしょう)

彼は憲法自衛隊の存在を明記したいようです。で、まともな方法の憲法改正はハードルが高いので、「高等教育無償化」という珍(迷、いや名)案が彼自身のアイデアか、まわりの提灯持ち、ソンタク連中から進言されたかで唐突に出てきました。憲法改正自体が自民の結党理念の一つであり、その長い期間を想うと1か月たらずで出てきた話で唖然とするほかないですね(ずっと前からそんな話があって、知らないのはこっちだけだったのかも…)。高等学校や大学に無料でいけるなんて大歓迎! しかし、これを憲法に書きこもうなんて、よその国に笑われそうです。日本の憲法にはすでに26条に立派な記載があります。「教育を受ける権利」。要は、これを具体化する、実現する気があるかどうか。

 

残念ながら私の読者には山口県の方がいません。おられたら、ぜひ「安倍普三を落とす会」を結成してください、とお願いしたいところです(が、安倍さんを支持されいたらかなわないか)。

熱くなり過ぎました。今も普三が、いえ心臓がパクパクしています。

 

 先日、内田樹さんと姜尚中さんの対談本『世界【最終】戦争論 近代の終焉を超えて』というのを読んだ。

あんたの好きそうな人だなあと言われそうですが、好きです。

生きるということは、限られた時間をいかに自分らしく使うかでもありますから、当然、読む本の選択には慎重になります。

余談ですが、40数年つれそってもツレは決してこの手の本は読みません。好きになれないんですね。最近おなじ本を読んだのは、前に記事に書きましたが、彼女が書名につられ(愛読の)推理小説かと間違って図書館で借りた『神経ハイジャック』だけです。

 本はもちろんとてもよくて教えられるところが多かった。

 ここで、その感想を書くつもりはないが、本の終わりのほうで内田さんが言われていたことがすごく心に響いたので、そのことだけを。

 

 それは「歴史に学ぶ」ということだ。

「不機嫌な時代の歴史に学ぶ」という項目で述べられていた。

 その前提として、内田さんは戦後70年間の平和に人々は「飽きた」とおっしゃっていた。

「平和」とは「飽きる」対象となるものではないだろうが、オカミ(国や政府など、力あるもの、強い《といわれる》もの)に「平和のぬるま湯」に浸かっていてはダメだ!、外国(といっても今は大の仲良しアメリカ)に押しつけられた憲法ナンセンス!、自主憲法制定!…と、日本に生まれたときから言われていれば、平和のありがたさ、尊さはわかってはいても、平和でなくなるわけじゃないので「憲法を変えるのもアリか。いや、気分維新(いえ、一新でした)のためにもいいかな」となる恐れが増える。

 この場合の「平和」は政治の問題であり、「気分」の問題ではないのだが、2015年7月可決され、きょ年3月施行されたいわゆる安保法であれほど著名な憲法学者がそれが憲法を踏みにじり、危険性(日本が戦争に参加する)を持つものであるかを指摘したにもかかわらず、「理論」「理屈」は「気分」に負けた。

 

 内田さんは、「飽きる」という感情は「ものすごい毒性を持つ」と、まるで心理学者のようなことを言われていたが、私は深くうなずいた。

「飽きられたからダメでしょ」の一言で、重要な政治的な問題が(意識的にか無意識的に)次々に捨て置かれていくメディアの現状。

「…飽きたから破壊しようぜとなったとき、何が起きるか。…今は、戦後レジームからの脱却とか、言葉だけがどんどん力を持っていっています。そういう種類の飽き飽き感を持っている人たちには、理屈で説明しても通らない」

 最後にもう一言、内田さんの言葉を。

「…大戦期間のヨーロッパでみんなが不機嫌なとき、『君たち、みんなずいぶん不機嫌になっているけれど、どうして君たちが打ち揃って不機嫌であるかというと、それは歴史的な理由があるからでしょ。君たちのその気分は君たちが選んだものじゃなくて、むしろ与えられているものじゃないかな』と指摘する人がいれば、中にははっと目が覚める人もいたと思うのです。『あ、俺は不機嫌であることを哲学的構えとして自己決定したつもりでいたけれど、本当はそうではなくて、不機嫌であるように歴史的に規定されていたんだ。がーん』ということに気付いたら、『一発戦争でもやっか』という時代の気分に対して、もう少し強い警戒心を持ったんじゃないでしょうか。歴史から学ぶとしたら、そういうことしかないでしょう。

 

おまけに私の不安もお聞きください。

前になんども「北朝鮮の弾道ミサイル。アメリカと、これにいつも全面同調の日本政府の動き」に不安を述べていました。とは言っても、心底では、(自分の身のために)金やトランプ・安倍はそろって「外憂」をつくり、そっちに国民の目をそらしているので本気で戦争を仕掛けはしないだろうと思っています。

けれど、「暴発」という事態が歴史にはしばしばありました。トップ連中は望んでいなくても、たとえば戦前の陸軍の行為の数々、いわゆる「満州事変」を起こした関東軍第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件などがあります。現在の北朝鮮、遠く離れてはいますがシリアの方はやっぱり心配です。政権中枢にいなくても、内田さんの言われるような「平和に飽きた」一般国民の一部が、みんなを驚かせるという劇場型でなくとも、真面目に政府広報を信じ、お国のために身を挺して…と思わないとは限りません。戦前の特攻隊に志願した若者、テロは絶対ゆるされなくとも自爆を覚悟したイスラム原理主義者、…あげればこういう死んで華と散る、ヒーローとなる「妄想」はどこにでもゴロゴロころがっています。

世界がイスラム原理一本化となったら、自爆したテロリストは英霊視されるんでしょうか。それともただのムダ死になるのか。

 

こんな戯言を述べていたら、「森友」に続き、似たような「加計」というのが出てきました。追及する民進党が好かん、蓮舫が好かん、共産党が好かん、社民党が好かんという問題ではないと思う。

 

と書いていたら、「共謀罪」が強行採決されました。

私も「共謀罪」の罪人対象、要注意者として警察に引っ張られるだろうか。

クワバラクワバラ… オソロシヤ… 

「ロシア」といえば、「仲」が取りざたされるトランプ。「アメリカとロシアが仲よしになるのはいいね」とツレが言った。「そりゃ、そうなんだが…。そういう問題ではないんだけど…」

 

 

                  ちりとてちん

 

2017.5.18 エピクロスの言葉

                                                  カメキチの目

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 先日のこと。

はてなサン」から知らせがあった。それはきょ年やおとどしのあなたの記事をふり返ってみませんか、というもので、1年以上やっている方には「ああ、アレ!」とおわかりいただける。(アレです)

 一瞬、面倒くさいなと思ったがめげず、ためしに2年前のヤツを見た。

 その記事は、「死」について古代ギリシャエピクロスの言葉だった。大好きな仏教(坊主ではありません。いちおう仏教学者で、ご本人は「仏教者」と言われています)ひろさちやさんの本に載っていたものを読んでの私の感想だ。

 

 いま、これを見て(読んで)思った。ちっとも自分の死生観は進歩していないなあ、と。

 でも、「これでいいのダ!」

「真実は、美と同じくシンプル」

 あれから2年たったが、自分なりに触れた死生観の言葉。なかには気にいったのがあったが、それらはけっきょく、「言いまわしは複雑、長く、違っていたが、別な言葉に置きかえただけ」のような気がした。

 

                  ちりとてちん

 

ちなみに、2年前の記事というのは下のとおりです。

(ここでひろさんの言葉「インドに生まれりゃよかった」がありますが、つい先日、ずいぶん前から気になっていた遠藤周作の『深い河』を読みました。

最後の方で、聖なるガンジス河のほとりで繰りひろげられる庶民の「生」と「死」が同居したふつうの姿と、それまで描かれた日本人の登場人物たちの生き方とが交差し、ひろさんの「インドに生まれりゃよかった」を実感した気分になりました)

 

 

世界は広い。世の中は私の知らないことに満ちあふれている。

【言葉】それを知っているか知らないかでは決定的にちがう、重い言葉がある。

 たとえば、エピクロス古代ギリシャ哲学者)の次の言葉はそうだと思う。

 

 「死はわれわれにとって何ものでもない」

 

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 要は、死についてあれこれ悩むことはないということだ。生きているときは死んでいないし、死んでいるときは“死”を思うことはできない。

 私は死ななかったけれど、突発的な事故に遭った貴重な体験からも、エピクロスの言葉にはすなおにうなずく。

きっと“死”はいつの間にか私たちのもとにやって来て、安らぎを与え、包みこんでくれるものにちがいない。

 ブランコの心地よい揺れみたいに。

 そう思えば、“死”は気楽なものになる。

 

 この言葉。じつは、大好きな仏教学者ひろさちやさんの文庫本に載っていた。仏教では、“死”は忌むべきものじゃない。生きることは死ぬこと。“生即死”なのだ。

 ひろさんは言う。現代の日本の病院では患者を医療づけにし、“死”を怖いものにする。

「インドに生まれりゃよかった」とも。

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 そうか…。古代ギリシャとお釈迦さまはつながっていたか。人の思うことは、地球のどこにいてもいつ生きていても、だいたい似た考えになるものかもしれない。