カメキチの目
禅語
隋処に主と作(な)れば 立処皆真なり
(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)
「隋処に主となる」とは、どこでも主体的ということ。
「主体的」とは、「自分が…自分が…」と目だとうすることではありません。
主体的に生きれば、「立処皆真」なり。つまり、あなたが歩もうとする道、歩んだ道は、みんな「真実」なのだよ、ということか。
言い換えれば、あらゆる場・時にあっても自分を忘れず見失わず、ということは自分の頭でちゃんと考え、自分の人生の主人公は「自分自身」であろうとすれば、あろうと努力する限り、そんな自分の姿というのは「真実」だということ。
出世を人生の目標にするのはいいとして、そのために上司の顔色をうかがう、長いものに巻かれる、「ソンタク」する処世術も、それを自分で選んでいるので「主体的」なんだろうか?「立処皆真」だろうか?
考えていたらわからなくなってきた…
ところで、
「主体的」というけれど、「自分」「私」という主体はまわりの人々、社会から孤立し、浮いた抽象的な存在ではありえない。
世間と隔絶した無菌室で生きているわけではない。
私は誕生したときから、この世の中・社会に受けいれられて育ってきた。
生まれてしばらくの間は人の(たいていは親)世話を受けた。小さく、幼かったので自力では生きてゆけず、まわりに順応するしかなかった。
そのうち大きくなり、「大人」といわれるようになる。
大人へと成長する前には「反抗」「批判(しばしば「非難」)」を覚えた。
しかし、世の中・社会に「受けいれられる」ためには、自分としてはこう思い、考え、判断するけれど、世のおおかたはああ思い、考え、判断するらしいと、多数(「ふつう」とか「常識」とか)に合わせ、さまざまな妥協もしながら生きる。
私は妥協して生きてきました(でも、力ある者にソンタクした覚えはない。恥ずかしいことはしても…)。
「妥協」というとネガティブな感じなので「折り合いをつけてきた」といい換えようっと。それを「ソンタク」とはいわないでしょう。
「常識」とか、世の中・社会から無意識の影響を受けていること。
隋処に主となる生き方するために、たまにはひとり
静かにならなければ。
ひとり静かにこもっても気づかないかもしれないが、
世の喧噪から離れてみることは必要だと思う。
隋処に主と作(な)るために、スマホを忘れることもいいですね。