カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.5.10 『人類学者…が森に入って考えたこと』②

本は次に「パースペクティヴィズム」ということについて述べられる。

ここもとても考えさせられた。

 

(あるネットで検索するとこの言葉の出どころはニーチェとのこと。

ニーチェパースペクティヴィズムとは、見られるものからの視点や視座から、

見 ているものを捉える見方…

しかし、視点や視座を管理し、自分の自らのものにしていると考える意識は、 ニーチェによると

「共同体的かつ群畜的な本性」に属しているので、いかに個人が視座を我が物としているように

考えようとも「共同体的かつ群畜的な本性」の ことに無自覚になっている…」)

 

   


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本には、

他者の観点に立って、自分たちが見ている世界とは違う観点から世界を捉える

ことを「パースペクティヴィズム」と呼ぶ」とあり、それには

宇宙論的」なもの」と「実用的」なもの」の二つの世界の見方があるという

 

宇宙論的」なもの」とは、ひとりの人間という生き物でしかない自分の存在を

宇宙という無限の彼方から見たときのもの。

(世界中の各地に見られる天地創造物語・神話、太陽神信仰などに表れている。

科学万能となった現代でも、宇宙は「他者」なのだ)

 

「実用的」なもの」とは自分が暮らしている生活世界のこと。

生活していくために必要な森に入る。

そこで出あう木や獣たちが「他者」となる。

木や獣たちになってみる。

彼らの目で世界を見てみる。

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パースペクティヴィズムの実践

相手の立場に本当に立てているかどうか、その判定は自分がやるしかないんですよね。

いかに荒唐無稽な経験を自分がしていようと、その経験をまず自分が「真剣に受け取ることなしに

検証へと移れない。…主観的、感覚的な実感がないと、探求できないと思うんです。…

もしムラブリのやり方で世界を見た時に、お化けが見えたとして「あ、見えた」と、

まず自分が経験したことを「これは本当に起きていることだ」と受け入れないといけない。

受け入れて初めて、ぼくの経験は客観的に検証できる対象になると気付いたんです。…

(普通は「客観的ではないから」と排除されるが)ぼくは、その主観的な経験こそ、

自然主義の実践やこれからの科学に必要な要素だと思うんです。…

自分の経験は自分が主張しないと始まらないんです。他人にどう思われようが科学的でなかろうが、

認めて伝えようとする(たとえばムラブリの人が「木の声が聞こえる」と言ったのを聞いたという

自分の経験を「真剣に受け取る」ことが大事)

プナンのパースペクティヴィズム

(トリ、シカ、魚などの糧を得るため、狩猟漁撈民のプナンは獣や魚たちを)まねるわざを用いて、

生態的課題を達成しようとする→(非人間の模倣

(奥野さんの自分が「荒川の水になって東京湾まで下っていくというパースペクティヴの

水を人間のために制御している。水をコントロールして…水の側から分かるんです。

(こういう実践からも「他者のパースペクティヴから世界を見る」ことの大切さが感じられる)

プナンやムラブリには時間という概念はない

 

   


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パースペクティヴィズム

 

要は、自分という人間だけではなく人間以外のさまざまな生き物などになってみる

(生き物に限らない。奥野さんは「」になって荒川の水源から東京湾まで下ってみた)

 

思えばそういうことは、幼いころから家や学校で親や先生から直接、諭され、

間接的には、昔話などを通して社会という環境からも説かれてきたので、

正直、「耳にタコ」ができたほど。

タコができてもそれは正しいことだといまはより強く思う。

「人生の真実」だと信じる。

なぜなら、小さな子どもも理解可能で、納得できるから)

 

ところが大人になると、生活という生きていく営みを自分でしなくてはならない

ようになるためか、(私もそうだが)目先のこと(欲望など)にとらわれやすくなり、

他者の観点」に立って見るということを忘れてしまう。

(他の人の身になったり、他の生き物のことを想っても仕方ない、想う《思う》だけでは実際の力に

ならないと自分を弁解する)

 

ほんとうに素朴な、単純なことなのに…

 

 

〈オマケの話〉

パースペクティヴィズム」。

活き活きと人生を過ごしているときは自分のことで精いっぱい、人生を謳歌している最中なので

あまり感じない、思わないことだろう。

別に私はいまを活き活き過ごしていないわけではないが、同じ「活き活き」でも、いまはいまの前より

質的に違う気がする。

 

自分が障害者になったとき、なってみて初めて気がついた新鮮な驚きがあったけれど、

いまはツレが脳梗塞を起こした後遺症のことで、彼女との日常的な接触、対応を通じ、

他者の観点」の大事なことをつくづくと感じている。

脳梗塞は発症も後遺症も個人によってさまざまだけど、「不幸中の幸い」でウチは軽かった。

しかし、こっちは意地悪どころか良かれと思ってすることでも、彼女の心、感情を傷つけることがあり

よく泣かせてしまう。

ところが、「こんなことくらいで…」と思うようなことでも、すぐ泣いてしまうのだ。

それも後遺症の一つとわかったけれど、わかっても、自分の身体のことではないのでわからない。

 

わからないが、相手の身になってみること、他者の観点」を持つことはできそう。

それがよくいわれる「寄り添う」ということだろうか。

《むずかしいけれど、1年もたって少し慣れた気がする》

 

 

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                       ちりとてちん

翅わつて てんたう虫の 飛びいづる  高野素十

 

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