前回は本の順番に沿って「パースペクティヴィズム」ということについて書いた
けれど、ページの離れたところでまた言及されていた。
(とても大切なことがいわれていると感じ付箋でチェックしていたが、すっかり忘れていた。
あらためて何度か読み返し、また考えさせられた)
「〈パースペクティヴィズムと客観的事実〉
(「パースペクティヴィズム」にこだわれば)
人の数だけ世界があり、動物や虫など人以外の世界も無数にある。…
パースペクティヴィズムを隙間なく適応すると、→「相手の立場にはなれない」
客観的事実がなくなり科学的基盤はなくなる→共通の言語の意味がなくなる
…
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「パースペクティヴィズム」などと小難しい言い方をしなくとも、(意識しているか
否か別にして)相手の立場になってみる、相手の気もちを汲もうとすることは
(あの「ソンタク」は別にして)日常的に誰でもやっている。
普段の生活では無意識に行っている「パースペクティヴィズム」だけど、
(いまは本での記述を通じ)こうした説明を受けたらハッとした。
無意識にやっていたことを自覚する。
「人の数だけ世界があり」ということ、ホントにそうだ。
「動物や虫など人以外の世界も無数にある」という事実。
気が遠くなりそうだ。
「パースペクティヴィズム」を徹底させたら「相手の立場にはなれない」。
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「共通の言語」
人間には「言語」「言葉」があるけれど、それはバーチャル、幻想、フィクション
であって事実、現実ではない。
だから、どれほど美辞麗句を用いようとも、完全には「相手の立場にはなれない」
けれど、たとえ「思い込み」や「誤解」でも相手に近づこうとすることはできる
(と思う。
それに、バーチャル、幻想、フィクションがリアル、事実・現実、ノンフィクションを凌駕する
かもしれない。
実際、最初は思い込みや誤解であっても終わりにはその通りになることだってある)
母の日や エプロン脱いだ だけのこと 岡野イネ子