8回にわたって「ブルトシップ・ジョブ」の本を紹介し、思ったことを述べてきた
けれど、少しほど前に
『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』 奥野克己 伊藤雄馬 ・著
というのを読んでいた。
奥野さん(人類学)伊東さん(言語学)というお二人が、それぞれ異なる場所
(奥野さんはインドネシア、伊東さんはラオス)に行き、一緒に暮らすという(頭で思考する
机上の学問としてではなく)フィールドワークを通して、「人間とは?生きるとは?
生活するとは?」と問い、見えてくるものを学ぼうとする。
その見えたこと、気づいたこと、学んだことが述べられていた。
(その本から刺激されたことが多くあり、「ブルトシップ・ジョブ」の理解に大いに役立った)
この本も何回(になるか未定です)かに分けて自分の感想を交えて紹介します。
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奥野さんはインドネシアの原住民「ブナン」族の人々、伊東さんはラオスの
「ムラブリ」族の人々のふところにとび込み、生活を共にした。
「〈なぜ人類学者と言語学者は森に入るのか〉
(2022.7開催された「森の民に心を奪われることは、現代人にとって何を意味するか?」という
シンポジウムにおいて、フィールドワークを終えて日本に帰ってきたとき二人が感じた違和感を
「「文化的な不適応」だと見ることは適切だろうか?」と司会者の社会学者宮台真司さんから問題が
提起され、対談という形で話し合いが行われた)
対談① 〈森の民に心を奪われるとはどういうことか〉
ムラブリやプナン、別の生の可能性への想像力
(司会者)
「(現代の私たちには)選択肢が増えて、選べることが自分たちの自己実現につながる、
自由につながる(自由がが増大する)…発想(があるが、それ)とは違う自由があるということ。
時間にも縛られず、お腹がすけば掘ったり採ったりするし、移動したほうがいいと思ったら移動する。
自由だと思いませんか?
(伊藤)
永続的な規範や相続や所有がないという具合に、ムラブリには私たちの持つ概念がないこと…
僕らが持っているさまざまな概念を持っていないことが、逆に、僕たちが概念によって縛られている
ことを炙り出すんです。…
(現代の私たちには)余計なものが多い…
「国なんて概念に過ぎない」は頭で考えることはできる(けれども)ラオスのムラブリのように、
(ラオスという国のなかで生活してはいるが、実質は)国のない世界を生きている人を目の当たりに
することによってしか、感じられない(強い衝撃があったが、同時に同じ人間なのだということも
強く感じた)(外側ではなく内側で感じる)→それができる自分は日本人だが《「地ならし」していくと》「いっしょ」といえる
”あわい”やインターフェースに身を置く(ことの大切さを強く感じた。自分は「日本」人、
彼らは「ムラブリ」と割り切って、「二分法」で考えるのではない)
→「国はある」と考える自分と「国はない」と感じる自分は地続きであって、
グラデーションを成している。…自分は同時に存在し、矛盾している…
”あわい”…多層的な自分に気づいていく…
そのことは、自分がグラデーションの中にいると気づけない。
一旦、外に出てみる必要(経験)がある…
多元的な自分が水槽の外にいて、多層的でグラデーションを成す自分が水槽の中にいる。
どの自分も同時に存在しますが、どの自分に軸足を置くかはその都度選んでいる…
(現実の自分は日本人で、日本で生活しているので)ご飯もコンビニで買えるという。
そういう生活の利便性というものを知っていて、その中で生きている自分と、
ムラブリのように森の中で暮らす、そうした強さに憧れる自分というものが同時にいる。…
お腹が空いていたなと思ったら、運転しながら、…お金を探す…。
その時にハッとして、「あ、ムラブリだったらこんなことしないよな」と…
最近は…、その矛盾する二つの自分を見下ろしている自分がいることに気付くのが大事なんだ
と思うようになったんです。
…
〈他者を「真剣に受け取る」こと〉
科学的には一つのものが、文化によって別の名付けがされている。
一つに定まっている科学的なものを「自然」と捉えて、その名付けとして異なっているのが文化…
「それは科学的には違うけれど、あなたたちの文化ではそうなんだね」と解釈することになります。
それだと、その「科学的」というものを抜け出せておらず、(彼らの)世界を真に受け入れられて
いないと感じるんです。…頭で理解することにとどまっている。…
そのレベルでぼくはムラブリと接しているかどうか、ムラブリを「真剣に受け取っているかどうか」を
突き付けられた感じがしたんです。
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「別の生の可能性への想像力」
現実は、それが「実際」「事実」なのだけど、そうではなかったかもしれない。
現実を、そういうように絶対視せずに心に余裕をもってみれば、
「実際」「事実」にのみ込まれてしまわないですむ。
生きることが楽に感じられる。
うえでとてもたいせつなことだと思う。
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私は「いいカゲン」「テキトー」な人間だ。
(「加減」や「適当」と漢字で書くべきところをカタカナにしたのは、バランスのとれたという意味
ではなく、悪い意味の方を強調したかったから)
昔、仕事をしていたときの低収入を自分の努力・能力不足と思うことはなく、
ただウンがよくない、自分を認め、受け入れようとしない社会が悪いと考え、
平然としていた。
(給料が少なくても生活していけたから文句はなかった。贅沢なんか少しも望まなかった)
いまも変わらない。
「ヘイトスピーチ」の人が、在日の人が日本の住みにくさなどを訴えると、
じゃあ朝鮮に帰れ!と言う。
私が軍隊のないコスタリカのことを羨ましがると、おまえはコスタリカに移ったら
と言う人がいるかもしれない。
だが、コトはそういう問題ではない。
口開けて 顔のなくなる 燕の子 佐藤和枝