カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.9.28 『人はなぜ宗教を必要とするのか』‐後‐

前回の続き(終わり)です。

 

第4章は略し、第5章、最後の第6章へ

 

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‐5⃣‐

第5章 「凡夫」という人間観

凡夫」という言葉は、自分について使う言葉であり、他人を見て、あの人は「凡夫だ」、

といういい方はしない

煩悩」とは自己愛のこと、…自分可愛さのあまり、つぎつぎと欲望を追いかけて生きてゆく、

それが人間だということになります。したがって、欲望に負けやすいのが人間の常だということ

法然親鸞他力仏教」は、人が「業縁」的存在一人一人が違う)であることを前提とする宗教

法然は布教にあたっても、…無理押しをせず、…「縁」が熟すのを待つという姿勢を貫いている…

大切なことは、人がそれぞれ固有であるのは、ひとえにその人が背負っている業縁」が個別である

                       ↓

「人権」を現実に確立するためにも、まず一人一人の固有性を保証する根拠を明らかにしてゆく

ことが重要…。

誰もがかけがえのない存在だということを、理想的に「人権」から説明するのではなく

まず人が他の人と決定的に異なるのは、なにに基づいているのかその根拠を問う作業が…必要…

                        ↓

凡夫デモクラシー

お互いに「凡夫」だという認識をもって集団を組むことはできないだろうかということ…

「凡夫」であることにおいて全員平等

お互いが納得する、一致点を見出すのは時間が必要になるのは当たり前

 

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人が「業縁」的存在」という考えの結論は、凡夫デモクラシー

(初めて聞いた考え。すごく新鮮で、心につよく響いた)

 

人間はだれも「個性」的存在。そういう具体的な存在でありながらも

同時に人間としてみな同じ、つまり普遍的なのだ

誰も生まれついたときから基本的人権もっている

(人は誰も「縁」、つまり「偶然」によって「個性」ある存在として生まれ、「縁」「偶然」に

翻弄され《それを「運命」といってもいいような気がする》自分の人生を生きる。

《「私は私であるが、他の人間でもありえたかもしれない」と想像してみることのたいせつさを説いた

茂木健一郎さんの「偶有生」という言葉を連想した》)

 

基本的人権を、啓蒙的な普遍的観念の方向でなく、具体的な一人ひとりの

人間存在の事実から説こうとする、「凡夫」であることにおいて全員平等

という「凡夫目線」の人間観の方向から目ざす。

                   ↓

一人ひとり違う人間が集団を組む(というか)社会を構成するなかで、不可避的に

さまざまなぶつかり合い、あつれきが生まれるのは当然。

その当然を、話しあい(対話し)ながらなるべく一人ひとりが「納得する」方向で

解決していけばよい、と著者はいう。

(よくいわれるように民主主義、デモクラシーは時間はかかるし面倒。

面倒くさくても、人間は業縁的存在だから、それが自然、当然なのだ)

 

宗教から発想する凡夫デモクラシー、すばらしいと思う。

 

凡夫デモクラシー」から今たけなわの自民党の総裁選を想った。

ウソか真か知らないけれど《どっちでもいい》聞くところによると、各地方の党員による地方票を

より多く稼ぐために、新たな自民党員がぞくぞく生まれているという

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‐6⃣‐

「〈第6章 …

苦行の否定

(ただ念仏を唱え阿弥陀仏におすがりするだけで誰でも極楽往生できるという「他力本願という

浄土宗の開祖法然は、「眠いときはどうすればいいですか?」と問われ)眠いときは無理をせずに

眠ればよろしい、そして、眠気が去ったあと、気持ちよく念仏するのがよろしい、と教えている…

(苦行しなければ極楽往生できないというのは)神仏に願い事をするときには、人間の方もそれ相当な

犠牲を払うことが必要であり、そうした「苦行」と引き換えに諸願成就(可能)

法然仏教の特色

写経や十分な布施もできないような人が、同じ人間として仏になることができないということには、

法然は我慢がならなかったのです。…

浄土教の「他力本願」)は、あくまでも、現に生きている人間を救済するための手段なのです

信じる意志、つまり「信心」こそが、信心が神仏の存在を決定する、ということなのです。…

 

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アニミズム自然宗教については、「ハイ、信者です」とはっきり言うけれど

仏教については、せいぜい「実家がそうですから檀家(葬式)信者です」と

モゴモゴこたえるくらい。

 

けれど、障害者になり、なんどもここで書いているように)禅語と出あってから、

自覚的な「仏教者」になった。

でも、禅は信じるようなものではないと思っている。

「禅の修行」といういい方があるように、悟りが何であるかはわからなくても

(わかった、悟ったと思ったら、「死」と同じでオシマイ)その境地にちかづけるよう、

たえず努力しなくてはならないもののようだ。

だから「自力本願」という。

(「自力」ということはすばらしいけれど、「信じる意志、つまり「信心」こそが、…」に照らすと

《苦行ではなくとも》自己修養・修練の禅行だけをみると、「これが宗教?」と思う。

個人的には禅語から人のあり方、人生について教えられることがとても多い。

だけど坐禅を本格的にしようとは思わない

 

自分で努力しなくても極楽往生できる、阿弥陀さんに任せればOKという

他力本願」。都合のいいようなイメージがあるけれど、それは違うと私は思う

「写経や十分な布施もできないような人が、同じ人間として…」ということで

法然は浄土宗をおこした。

(実家は「浄土真宗」。貧しくて勉強もできず、祖母は文盲だった。朝夕かかさず念仏をとなえ

極楽往生を祈っていた)

 

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よく「自分には厳しく、他人には寛容」という。

禅と浄土と結合すればいい。

 

 

 

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                         ちりとてちん

 

 

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