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kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2017.4.13  「実存」

 

 

                                                  カメキチの目

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【前おき】------------

 ふと思った。

「私は友人が少ない」

といって、嘆いているのじゃありません。

  今もつき合いのある知人、友人というのはあまりいない。

というか、ほとんどいない。

といって、自分ではフレンドリーでないとは思っていません。

 

 働いていたところは小さな職場で(しかも女性が圧倒的に多かったこともあり)、すでに家族もち。そのうえ収入も少なかったので、学生時代の友人ともつき合う余裕はなく、自然に疎遠となってしまった。

 だからか、もともと自分中心、独善的なところが他人とのつき合いがないことでヨソ・外からの空気が入らず、「井の中の蛙」状態が続き、ますますわがままになった。

 仕事している間は、いくら小さな人間関係でも、あるだけマシだった。

 そこでの相手は他人だから、いくら自分中心人間でも、少しは相手を(誰かサンのように)「忖度(ソンタク)」する。卑屈にならない程度には人間関係に気を遣う。

 しかし、親しくはならなくていい。仕事だから。

先にも書いたが、女性が多いので親しくなってはまずい。

もちろん、親しさどころか、仕事をこえる関係など皆無だった。

 

 退職してからは、言葉の正しい意味で、ツレと顔を合わせっきりの、正月の日々である。

「毎日正月」といっても楽しいとは限らない。ふつう正月が楽しいのは風雪もあった364日を乗りこえてきたからでしょう。

長い前置きになりゴメンなさい。

 

【本題】--------

 ブログはスゴイ!

 退職して、ブログの存在を知ってはじめたが、何か月もほんの数人の方だけが読んでくださった。

いまは増え、多くの方々にお読みいただき、読ませていただいている。ありがとうございます。

 そして、知りあった方たちに心地よい風を通していただいた。

 前にも書いたが、さまざまなことを感じ、知り、学んでいる。

 

 ブログを始め、「世の中はとてつもなく広い」ということをしみじみ感じた。

 たくさんの方が、いろいろに生きておられる。ということを「知る」のを通りこし、「感じている」。

 

 自分のちっぽけな世界は広がり、相対化されてゆく。

 

 そりゃあ、ネットには「直接性」はないが、(それを「仮想現実」と言おうが、れっきとした)「現実」である。

 ブログを書く方の存在を強く感じる。

 必要とあらばコミュニケーションもできます。

 

 いま、「…存在を強く感じる」と書いたが、それは若いころよく聞いた「実存」みたいな感じ。

 

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「ジ・ツ・ゾ・ン…何それ?」

 いまでもちょっとかたい本を読むと出てくる。

詳しく知りたい方はネット検索してください。頭が痛くなるようなことがいっぱい出ます。

 ある記事を書かれた方が、「いまそこ(パソコンを通して)におられる、そしてこんなこと(記事のなかみ)を考え、感じ、思っておられるんだなぁ」という感覚。

 画面から息づかい、呼吸が聴こえてくる。

 

 

                 ちりとてちん

2017.4.9 「強い者…」の続き

 

 

                                                  カメキチの目

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『強い者は生き残れない』を書いたときブックマークに、ある方が内田樹という人文系の学者さんのブログ記事を教えてくださった。

(Kenchan3さん、とてもよかったです。ありがとうございました)

ところで、ご紹介の記事を多くの方に読んでいただきたく、《前に内田さんの本を読んだとき、ご本人が『ブログで書いたこと。気にいったら著作権など問わないから勝手に使っていい』とあったので》ここにも貼りつけさせていただきました。 

     http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.php

内田さん、ありがとうございます。

 

 その記事で内田さんは、有名な映画『七人の侍』の主役七人それぞれの個性を論じ、その個性がうまくかみ合って結びついたとき、つまりお互いが助け合い、力を合わせるとき、そこに1+1=2ではなく4にも5にもなることを「組織論」として展開されていた。

それは「映画」のことと言ってしまえばそれまでですが、現実では「なかなかそうは問屋がおろさない」物語を、「さもありなん」と観客に感じさせるように仕立てあげた黒澤明監督のこの作品を、内田さんの記事を通してあらためて私はスゴイと思いました。

ついでに言わせてください。同監督の『生きる』は日本映画の金字塔(私の長い人生でも鑑賞したのは指折り数えられるほど少ないですが)とひとり思っています。

 内田さんのすばらしい話に、私は『七人の侍』のストーリーも思いだし、感動さえした。

 

 内田さんは、その話の前段、とっかかりに、ある共同体(そのレベルはさまざまですが、要はいろいろな人の集まった「まとまりのある」集団)が持続するには何が必要か、たいせつかということを述べられている。

■-------

 共同体にはいろいろなメンバーがいる。

 同質集団ではない限り、なかには必ず、「マイナーメンバー」(子ども・年寄り・障害者など社会的弱者や、2月9日記事の「『普通』を考える図書館」でいった「ゲイだったりホームレスだったり…」マイノリティーの人たち)もいるはずである。

 彼らは援助されなければ生きていけない場合さえある人々だ。

 彼らを援助するとき、その人たちを今の自分と重ねる想像力をもたない人間(つまり、「援助すること」を「自分は損をしている」と感じる人)は共同体に参加する資格がない。

 

 誰もが、かつては「子ども」だったし、「年寄り」になるし、「障害者」になるかもしれない。

ゲイに生まれついたかもしれないし、シリアや北朝鮮に生まれていたかもしれない。

 ■-------

 そうして、

七人の侍」組織論と、「マイナーメンバー」を援助し守らなければその共同体そのものを維持できないという話はきちんとつながるのである。

ぜひ、上記のブログ記事を直接お読みになってください。

(九尾さん、ぜひとも読んでみてください。もうお読みになられましたかね)

 

そうそう、思いだしました。『若者よ、マルクスを読もう』という内田さんの本(を読まずして)に刺激され、同名の記事を書いたことありました。

 

                  

                  ちりとてちん