ほとんどの人は、「差別していない」思っている。
しかし、差別的な行為そのものはしていなくても、
差別的なまなざし、心で他人の仕草を見ていることがある。
(私はある。そういう自分はイヤなので、これは「差別」ではなく「区別」と弁解するけど、
実のところわからない)
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『他者を感じる社会学-差別から考える』 好井裕明・著という本を読んだ。
私たちの生活している資本主義社会という現実の構造自体に階級・階層がある
明らかなピラミッド社会だから、口ではお題目のようにみな「平等」と唱えても、
客観的なピラミッド構造による経済格差の存在(「富裕・貧乏」は相対的な言いまわし
だから、社会全体が富めばいまの貧乏人も金持ちに近づく。しかし金持ちはもっと富み、差は大きく
なっていくばかり)を前提に成り立っている。
(「経済的格差」という現実・事実がいろいろな形で個人の心に反映し、さまざまな差別意識、
被差別の思いが生まれないとはいえない。
人は誰でもある社会で生活しているわけだから、放っとけば、その社会の支配的な「空気」、「常識」
「あたり前」になっている価値観の影響を受けやすいと思う。
アレっ?と感じたら、結局「差別」か「区別」かわからなくても、敢えて「問う」てみたい。
とても強く心に響いたことだけ書きます。
5項目あり、今日は①~③です)
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① 「〈他者理解の過程で生じる差別〉
差別は、自分自身が囚われることがない稀で特別な心理や感情が原因であり、
特別な心理や感情を持ちやすい人や、またそうした心理や感情に囚われた人が起こしてしまう行為…
だから差別は「特別な人」(の問題だとすることは決定的に間違っている)」
② 「〈差別を考える二つの基本〉
受けたことで生じた(被害者の心情→)「痛み」や「傷」という受けた側の苦しみや痛み、怒り
憤りや抗議という「声」(があって初めて「差別」であり「ハラスメント」とされる)
→(差別された側の「声」によって初めて差別かどうかがわかる)
…
(誰でも)「差別してしまうあやうさ」(があることに)絶えず気をつかなければならない」
③ 「〈カテゴリー化という問題-他者理解の「歪み」を考える〉
私たちは、普段、目の前にいる他者を”他の誰でもない、”かけがえのない唯一の存在”としての
「あなた」としてではなく、あるカテゴリーをあてはめることで”ある意味をもった誰かさん”として
理解しています」
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①
何度も深くうなずいた。
ところで、本には上の引用文の前に、「戦争は最大の差別」
「相手は「人間」ではないのだから、殺してもいいのだという強引な理屈が必要」
とあって、考えさせられた。
あの戦争で日本は敵を「鬼畜米英」と言い、アメリカ人やイギリス人は鬼、牛・豚
などのように見た。
(現代では滑稽で信じられないことでも、かつてほとんどの国民が真面目にそう信じていたという
歴史の事実を子どもたちは知らなければならないのに…。
あの当時、国民のほとんどは「外人」を現代のように普通に見、接することはなかった。
つまり見慣れないし、知らないので《「無知ほど怖いものはない」の通り》ほんとうに鬼や畜生、
同じ人間ではないと思ったに違いない。
「国民のほとんど」が「鬼畜米英」という偏見を信じたのであって、特定のある日本人だけの問題では
なかった。
《そういう偏見や差別的な見方は日本だけのことではなかった》)
戦争は国家同士がするもので、ケンカのように個人がするものではない。
「鬼畜米英」は戦争必勝のために生み出した「神風」と同じスローガンであり、
正確にいえば、日本という国自体が「鬼畜」と米英国を差別しているわけだ。
(「鬼畜」だけではなく「神」もいた。天皇陛下という畏れ多い神様。
「神」のもとではすべての国民は「臣民」として平等でなければならなかったのに、
現実は、「臣民」の間に厳然たる差別があった。
そういう意味で、戦争は敵を「鬼畜米英」と差別することで、被差別者の現実、差別の辛さ、苦悩を
隠蔽した《何という歴史の皮肉だろうか》)
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②
「受けたことで生じた「痛み」や「傷」という受けた側の苦しみや痛み、怒り、
憤りや抗議という「声」」が報道される。
自分がそんな目に遭ったらと想像すると、老いても心と体が熱くなってくる。
何よりも大事なのは被害者の「声」。
(ドラマは「ドラマ」だから面白さを狙うこともあり、痴漢に遭ったという若い女性の訴えがウソ、
仕組まれたものという設定もあるけれど、現実には極めて少ないと思う。だから、イジメに遭った
という子どもの訴えに「適切に対応します」と形だけ頭を下げる姿の学校側、教育委員会にすごく
腹が立って仕方ない。
とは言うものの、「声」の大切さは私には他人ごとではない。
夫婦ゲンカして、こんなことで泣いて…とか、どっちもどっち、自分だけが「被害者」面して…などと
毒づいていたけど、ケンカで二人とも受けた気まずい思いは変わらないとしても、《夫婦といえども
それぞれ違う個人だから》心のレベル、「受けたことで生じた「痛み」や「傷」…は絶対違うという
単純素朴なことに、最近まで気づかなかった。
夫婦ゲンカは、若いときは子育てをめぐってなど大切な問題が原因のことが多かったけれど、老いた
いまはすべてたいしてことではない。たいしたことではなくとも、悪意や意地悪は皆無でも
《だから後で「そんなつもりではなかった」との言い訳につながる》「誤解」が生まれ、それが元で
ケンカになる。
が、大事なのは傷ついた側の「声」
《私はこれほど歳を重ね、やっとわかった。「誤解」が原因でも現実に「「痛み」や「傷」」を
与えた自分が悪いことが》
そうなんだが一刻も早くケンカ状態をおさめ、いつもの穏やかな状態、関係に戻りたいので、
私は何もなかったような、ケロッとした姿《だから何も反省、後悔していないように見える》
になれるけれど、相手は平穏な感情に立ち直るまでに一日、一晩はかかる。長い)
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③
「私たちは、普段、目の前にいる他者を”他の誰でもない、
”かけがえのない唯一の存在”としての「あなた」としてではなく、
あるカテゴリーをあてはめることで”ある意味をもった誰かさん”として理解」
ほんとうに大切なことが述べられている。
こう言われてみるまで私は気づかなかった。
どっちみち 梅雨の道に 出る地下道 池田澄子