カメキチの目
④ 世阿弥
まずは引用から。
【引用】
1 無常と「飛花落葉」
世阿弥は…「飛花落葉」という言葉を好んで用いた。
そこからも、世阿弥のなかに兼好と同様に深い無常への思いが流れていた…
世阿弥は、…我見の対極にある離見を自己自身のものとしたときにはじめて
自己自身の本当の姿を見ることができるという逆説を、この「離見の見」
という言葉で言い表したのである。
3 「花」と「幽玄」
「花といふに、…四季折節に咲く物なれば、その時を得てめづらしきゆゑに、
もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなわち面白き心なり
花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」
「いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり
能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体(ふうてい
芸・演技)に移れば、めづらしきなり」…
花はその折々に咲き、また散っていく。だからこそ新鮮で心惹かれるのである。
能もまた新鮮さがあればこそ、観客に強い印象を与えることができる。
その効果を世阿弥は「花」と表現したのである。
「幽玄」の伝統
中国仏教でもまた、仏法の深遠で、容易には理解しがたいことを言い表すために、
この「幽玄」という言葉が使われた。→(老荘思想の「幽玄」にも通じる)
このように「幽玄」は和歌や連歌の世界において、一方では言葉による表現の
優美なあり方として、他方では、言葉には表現されず、ただ余情として
感じとられるものとして理解されてきたが、世阿弥の「幽玄」もそのような理解を
受けつぐ。
「しほれたる」ものの美
この枯れた印象を与えながら、そのなかにおいて、明確には言い表せないが、
しかし深い感動を与える能を、世阿弥は「冷えたる曲」と呼び、
無上の演技者のみがそれを演じうるとしているのである。
4 無心と妙‐たどりついた境地
無心の能
世阿弥は、視覚や聴覚に訴える明確な「文(あや)」のある「有文」よりも、
むしろ、格別の「文」がないにも拘わらず、観客に深く訴える「無文の能」を
高く評価したのである。
無心と「禅」
「妙」とはなにか
このように演者の演技についても、見者の感受についても「妙花」ということが
言われるが、それらはそれぞれに生じるというよりも、
むしろ演者の「無心」の演技と、見者の「無心の感」とが響きあい、
重なりあったところに生まれると言った方がよいのかもしれない。
(※ 赤字、→黒字はこっちでしました)
■ 「飛花落葉」
花びらが飛んで葉が落ちる。ただそれだけのこと。
(風が吹き、葉へあたったから…晩秋となり、葉緑素による光合成をやめたから…
ひとりでに《自然に》重力により地面に…など科学的な説明がいまならできる)
世阿弥は、毎年くり返される身のまわりの、それを
眺める自分をも含めての、自然の変化に「無常」を
感じざるをえなかった。
前回、長明・兼好の「無常」感を書いたけれど、
私たち日本人には親しい「無常」という心の営みは
外国人にもあるのだろうか?
観光で日本を訪れた外国人が紅葉を見てテレビで
「オオッ、ビューティフル!」と最高の笑顔で叫ぶ
場面をみると、どこの国の人も美的感覚は似たもの
かなと思う。
けれど日本人は、その美しさに、同時に「移ろい」
(時間経過)の感覚を加え、「来し方 行く末」を想い、
儚さ、無常の思いにとらわれる。
(「花びらが飛んで葉が落ちる」という、ただそれだけの自然現象に私も
心が動かされる。こういうとき、日本人であってよかったと痛感する)
■ 「離見の見」
「我見の対極にある離見を自己自身のものとした
ときにはじめて自己自身の本当の姿を見ることが
できるという逆説」
私は、人生とは自分が主役となって自分の人生
という舞台を演じきる(「きる」というのがたいせつ)こと
=生ききることだと信じているから、
「離見の見」とは、単に能などの演舞や演劇の理論
としてではなく、人生論としても読めると感じた。
演じている(すなわち生きている)自分を、同時に別の
自分がみているように演じる(生きる)ことができれば、
さぞかしおもしろいだろうと思った。
■ 「花」
「四季折節に咲く物なれば、
その時を得てめづらしきゆゑに、
もてあそぶなり。
申楽も、人の心にめづらしきと知る所、
すなわち面白き心なり。
花と、面白きと、めづらしきと、
これ三つは同じ心なり」
「散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり
能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。
住せずして、余の風体(ふうてい 芸・演技)に
移れば、めづらしきなり」
世阿弥の言葉の一言一句が迫ってくる。
花は散るゆえに咲くのが面白く、めずらしいという
能も(演ずる→生きる)花と同じだという。
能も花と同じで、「住する所なき」「住せずして」
演じなければならない。
そうしてこそ、花が四季折々に咲くのがめずらしい
ように、能もめずらしく、めずらしいことによって
面白がられる。
思ったことがなかったが、世阿弥のこれを聞いて、
観たいと思った。