カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.2.11『日本文化をよむ』 ④世阿弥

             カメキチの目

 

 ④ 世阿弥

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 まずは引用から。

 【引用】

1 無常と「飛花落葉」

世阿弥は…「飛花落葉」という言葉を好んで用いた。

そこからも、世阿弥のなかに兼好と同様に深い無常への思いが流れていた…

 

2 室町文化世阿弥の能

世阿弥は、…我見の対極にある離見を自己自身のものとしたときにはじめて

自己自身の本当の姿を見ることができるという逆説を、この「離見の見

という言葉で言い表したのである。

 

3 「花」と「幽玄」

「花といふに、…四季折節に咲く物なれば、その時を得てめづらしきゆゑに、

もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなわち面白き心なり

花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり

いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり

能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体(ふうてい 

芸・演技)に移れば、めづらしきなり」…

花はその折々に咲き、また散っていく。だからこそ新鮮で心惹かれるのである。

能もまた新鮮さがあればこそ、観客に強い印象を与えることができる。

その効果を世阿弥は「花」と表現したのである。

「幽玄」の伝統

中国仏教でもまた、仏法の深遠で、容易には理解しがたいことを言い表すために、

この「幽玄」という言葉が使われた。→(老荘思想の「幽玄」にも通じる)

このように「幽玄」は和歌や連歌の世界において、一方では言葉による表現の

優美なあり方として、他方では、言葉には表現されず、ただ余情として

感じとられるものとして理解されてきたが、世阿弥の「幽玄」もそのような理解を

受けつぐ。

「しほれたる」ものの美

この枯れた印象を与えながら、そのなかにおいて、明確には言い表せないが、

しかし深い感動を与える能を、世阿弥は「冷えたる曲」と呼び、

無上の演技者のみがそれを演じうるとしているのである。

 

4 無心と妙‐たどりついた境地

無心の能

世阿弥は、視覚や聴覚に訴える明確な「文(あや)」のある「有文」よりも、

むしろ、格別の「文」がないにも拘わらず、観客に深く訴える無文の能」を

高く評価したのである。

無心と「禅」

」とはなにか

このように演者の演技についても、見者の感受についても「妙花」ということが

言われるが、それらはそれぞれに生じるというよりも、

むしろ演者の「無心」の演技と、見者の「無心の感」とが響きあい、

重なりあったところに生まれると言った方がよいのかもしれない。 

 

(※ 赤字、→黒字はこっちでしました)

 

 

■ 「飛花落葉」

 花びらが飛んで葉が落ちる。ただそれだけのこと。 

(風が吹き、葉へあたったから…晩秋となり、葉緑素による光合成やめたから…

ひとりでに《自然に》重力により地面に…など科学的な説明がいまならできる)

 

 世阿弥は、毎年くり返される身のまわりの、それを

眺める自分をも含めての、自然の変化に「無常」を

感じざるをえなかった。

 前回、長明・兼好の「無常」感を書いたけれど、

私たち日本人には親しい「無常」という心の営みは

外国人にもあるのだろうか?

 観光で日本を訪れた外国人が紅葉を見てテレビで

「オオッ、ビューティフル!」と最高の笑顔で叫ぶ

場面をみると、どこの国の人も美的感覚は似たもの

かなと思う。

 けれど日本人は、その美しさに、同時に「移ろい」

(時間経過)感覚を加え、「来し方 行く末」を想い、

儚さ、無常の思いにとらわれる。

(「花びらが飛んで葉が落ちる」という、ただそれだけの自然現象に私も

心が動かされる。こういうとき、日本人であってよかったと痛感する)

 

■ 「離見の見」

我見の対極にある離見を自己自身のものとした

ときにはじめて自己自身の本当の姿を見ることが

できるという逆説

 

 私は、人生とは自分が主役となって自分の人生

という舞台を演じきる(「きる」というのがたいせつ)こと

=生ききることだと信じているから、

「離見の見」とは、単に能などの演舞や演劇の理論

としてではなく、人生論としても読めると感じた。

 演じている(すなわち生きている)自分を、同時に別の

自分がみているように演じる(生きる)ことができれば、

さぞかしおもしろいだろうと思った。

 

 ■ 「花」

四季折節に咲く物なれば、

その時を得てめづらしきゆゑに、

もてあそぶなり

申楽も、人の心にめづらしきと知る所、

すなわち面白き心なり。

花と、面白きと、めづらしきと、

これ三つは同じ心なり

散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり

能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。

住せずして、余の風体(ふうてい 芸・演技)に

移れば、めづらしきなり

 

 世阿弥の言葉の一言一句が迫ってくる。

 花は散るゆえに咲くのが面白く、めずらしいという

 能も(演ずる→生きる)花と同じだという。

 能も花と同じで、「住する所なき」「住せずして」

演じなければならない。

 そうしてこそ、花が四季折々に咲くのがめずらしい

ように、能もめずらしく、めずらしいことによって

面白がられる。

 

 私は能も狂言浄瑠璃も歌舞伎も一度も観たいと

思ったことがなかったが、世阿弥のこれを聞いて、

観たいと思った。

 

 

 

 

 

 

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                            ちりとてちん

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