(先の記事にも書いた)「人間の無限の可能性」ということ。
漠然としているが、人生への勇気を与える言葉であることはあっちこっちで聞くし
間違いない(と思う)。
(しかし、この言葉に勇気をもらったということは《そもそも自分の可能性を確かめる試み、
挑戦のような努力を必要とすることをやったことないので》私にはない。
それに昔は、「自分の可能性を確かめる試み、挑戦のような努力を」しようにもモノや情報が少なく、
「可能性」「自分探し」どころではなかった)
いまは、それなりに長く生きてきてわかったことがある。
「人間」とひと口にいっても具体的にはいろいろあり、「無限の可能性」を信じて
努力する人間もいれば、自分のようにそうではない人もいること。
「無限の可能性」を信じて努力するのはすばらしいけれど、希望は叶わず、
挫折することもある。
(結果がどうだろうと「過程」が大切というのもわかるけど…)
いちばん大事なことは、思うようにならなかった物事、叶わなかった希望に
折り合いをつけ、「自分の人生はこれでよかった!」と納得することだと思う。
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AIの本と同じころ、
『断片的なものの社会学』 岸 政彦・著 という本を読んだ。
AIの本の方では個人的な感想でそういうことを思ったのだが、ここにはズバリ、
直に述べられていた。
「辛いときの反社的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、
どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。
人間の自由は、無限の可能性や、かけげのない自己実現などといったお題目とは
関係がない。…勇ましい物語のなかにはない」
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この本は題名に「社会学」がついているように社会学を専門とする岸正彦さん
という大学の先生が書いたものだが、ちっとも学問の本という感じがしなかった。
「社会」を外れては生存できない「人間」ではあるけれど(そういう意味で
「社会的存在」)、現実は「個人」として存在し、ある特定の社会、集団の中でしか
生きてはゆけない。
そういう具体的な個人の人生に焦点を当ており、随筆みたいな感じの本だった。
(3回に分けて書きます。
上述引用の部分は次、②で触れます)
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著者は最初にこう述べられる。
「人生は、断片的なものが集まってできている
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。
そして世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである」
「断片的なもの」の内にはダイヤモンドのような稀で貴重(と社会から評価される)
なものもあるかもしれないが、ほとんどは「ありふれたもの」で成り立っている。
そうなのだが、「ありふれたもの」の無限ともいえる組み合わせで、一人の人間が
出来ており、生きている。
まさしく「世界にひとつしかないもの」であるのだが、
同時に「世界中の路上に無数に転がっている」。
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次にこう述べられる。
「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない
私たちが目にしながら、気づいていないことはたくさんある」
「私はどこかで、通りすがりの人と植木鉢について話を交わすことが、あるいは植木鉢そのものを
交換することが、なにかとても重要なことのように思える」
「誰にも隠されていないが、… 私たちが目にしながら、気づいていないこと…」
には心当たりがあるととても強く思った。
よく「心の目で見なければ見えない」というけれど、ただ単に目を向けているだけ
では見えない。見ていても気づいていないのだ。
心、意識を向けないと見えない。
(私は障害を負ってから視界はボンヤリ見えるけれど、見たいものを意識し、焦点を合わせないと
ハッキリ見えない。そういう意味では障害者になってからは「心の目」が敏感になった気がする)
「通りすがりの人と植木鉢について話を交わすこと…植木鉢そのものを交換する
ことが、なにかとても重要なこと…」
「一人でじっと鏡を見つめていても自分はわからない」という。
人は(間に立つものは植木鉢でも何でもいい)他の人との交わりがなければ自分を知る、
わかることができない。
他者を通してしか自分という人間はわからない。
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「世界にひとつしかないもの」が「世界中の路上に無数に転がっている」私たち
一人ひとり。
「誰にも隠されていないが、… 私たちが目にしながら、気づいていないこと…」
に気づくために、
「通りすがりの人と植木鉢について話を交わすこと…植木鉢そのものを交換する
ことが、なにかとても重要なこと…」
三つのことはみんな繋がることに(遅まきながら私はいま)気がついた。
いにしへの そのいにしへの 杜若 京極杞陽