■ 法に触れさえしなければ(合法的なら)何をしようとかまわない風潮
(弁護士の仕事は《訴訟の内容によってはそこに倫理はあるのか?と首をかしげることがあろうと》
相手を論破し勝訴すること。
弁護士に欠かせない能力は、詭弁としかいえない論理《屁理屈》を弄しても、カネを払ってくれる
クライアント、お客さんの利益を守ること)
■ 人間としてのプライド、矜持が不要な社会が到来しつつあるような
(アメリカではトランプのような人物が大統領になったし、現在、裁判中であっても再び大統領を
目ざしている。
トランプは通常の広告・宣伝、パフォーマンスに努める選挙戦術だけではなく、新しい戦術として
時代の先端技術、ネットやスマホ、sns《ツイッター》メディアをうまく活用して勝利した。
そう考えると、トランプ大統領の出現は、あくまでも現代という時代だからこそ可能だった出来事、
現象であり、「時代の産物」だと思う)
■ いじめや虐待の増加、犯罪の質の変化。
(日本でいじめや虐待が増えたことは、行政などの取り組みが高まり、一般への周知が強まった結果
発見、通報が増えたということもあるが、「オレオレ」などの詐欺の出現、増加とともに、背後には
道徳・倫理感、意識が大きく後退した「社会的空気」みたいなもの、雰囲気があるのでは)
いまの世の中、社会のことでパッと思いつくこと三つ、上に■で書いてみた。
人の心、内面のあり方・状態が、昔とはちょっと変わってきている気がする。
「変化」は何にでも当てはまることだから、あたり前といえばあたり前だろう。
が、ため息が出た。
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ところで、違法なことはせず、それなりのプライドを持っていきている普通の、
一個人の人生はどうだろうか。
昔に比べれば知識・情報も増え、技術も進み、「自由」になることは増えた。
したがって、選択肢は増えた。
増えたけれど、その恩恵にあずかろうとしたら、先立つもの、
ある程度自由に使えるお金がなければならない。
すべての人の素質には「無限の可能性」がある、と子どものころ聞いた。
けれど、素質に「無限の可能性」があるかどうかはやってみなければわからない。
やれたとして、開花したならば「あった」、開花しなければ「なかった」(または
「努力不足」「不運」)で終わる。
(「やれる」とは可能性開花のための挑戦ができることで、ある程度の財力と理解がある家に
生まれなければならない。開花のチャンスにも恵まれなければならない。
ここでも「誕生」「開花のチャンス」という運・不運がつきまとう)
そういうことを他人が気安く「不運」「あんたのせい」と言い、
その人の「自己責任」に帰しては決してならないと思う。
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「ネオリベラリズム」の何でもかんでも「自己責任」にしてしまうことに対し、
著者は「伝統や文化」(いわゆる「大きな物語」)の大切さを強調される。
(「伝統や文化」は、「大文字の他者A」《AはBでもなんでもよく、意味はない》とも表現される)
「〈大文字の他者Aの衰退する社会〉
「大文字の他者A」が不安定になると、コミュニケーションは…閉じがちになる。
…
社会的に共有された制度としての儀礼が揺らぎ、個人的にウィットなどで儀礼的問題を処理するなどの
ばらつきが出てきて、制度として成立しなくなってくる。
そうすると、私たちは、相手を信頼できるか、どのレベルでコミュニケーションを進めるか、
トラブルが起きたらどうするかなどを制度に頼らず、個人の力で処理なくてはならない」
上の引用では「社会的に共有された制度としての儀礼」が述べられているけれど、
儀礼も一つの具体例である「伝統や文化」は、知らず知らずのうち(私たちがとくに
これといって意識しなくとも)働いている。
根本的に大事なことは、人と人とを繋ぐ、人間関係を支えるコミュニケーション
(言葉だけではなく、身振り手振り、「暗黙の了解」のような非言語を含めて)は社会の基本で
「伝統や文化」というものは洗練された「社会的に共有された」ものだということ
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ある社会は、ある「大文字の他者A」が安定して働いていること、つまり、
ある人々にとって共通の「伝統や文化」(「価値観」)が前提とされていてこそ
成り立っている。
目や耳で感じ、味わえる形としての「伝統や文化」は日本にはいっぱいあるけれど
そうではない(たとえば「お互いさま」「一寸の虫にも五分の魂」など地球全部に自慢できる
「伝統や文化」)形のない空気のような「大文字の他者A」が安定して働いている
といえるだろうか。