カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.7.2 『断片的なものの社会学』②

今日は①で述べた、

辛いときの反社的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、

どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。

人間の自由は、無限の可能性や、かけげのない自己実現などといったお題目とは

関係がない。…勇ましい物語のなかにはない」を、

その前後で述べられていることを含めて書きます。

 

     

 

     

 


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引用文の前にこうあった。

笑いと自由

私たちは、人生のなかでどうしても折り合いのつかないことを、笑ってやりすごすことができる。…

自分というこのどうしようもないものとなんとか付き合っていける

 

後には

もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。

もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。

人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、

そういうことではない。

ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。

それが自由というものだ

 

      

 

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私は単純で、独断に陥りやすい、柔軟な発想が苦手だと感じることがよくある。

だからか「自由」というと即、「自由と民主主義」になり、自民党みたいなことを

言ってしまう。

 

自民党とは無関係に)「自由と民主主義」は私たち個人が生きる社会の大前提。

その上で、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんある」社会であって

ほしい。

(決して北朝鮮のような国であってほしくない)

 

しかし、社会に対してはそうでも、

個人の「心(内面)の自由」となるとどうだろう?

 

      


どんな社会、どういうときでも人、個人の心は自由なのだ。

笑いと自由」 考えさせられた。

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社会に対して「自由と民主主義」を求め、拡充することはとっても大切なこと。

(朝ドラ『虎に翼』は、直接は「自由と民主主義」の物語ではないけど、戦死した愛する人々への

残された者、いちばんの犠牲者ともいえる孤児たちの姿を通して「自由と民主主義」の大切さも

訴えている。

家庭裁判所創設前後の物語は先週で終わったが、創設の中心となった人物のいう家裁の根本理念

「愛」とは「自由と民主主義」を人間個人の心に言い換えたものだと思った)

 

しかし、自分では選べない「社会」、どうにもならない「(私の)人生」。

(いつの時代、どういう国や地域、どんな親、家の元に生まれるかわからない。

人生は自分という個人を生きてゆくしかないけれど、どうなるかわからない)

 

しかし、自分では選べない「社会」、どうにもならない「(私の)人生」

ではあっても、

人生(だけではなく、自分が生きている社会でさえも)のなかで

どうしても折り合いのつかないことを、笑ってやりすごすことができる

人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、

可能性がたくさんあるとか、そういうことではない

 

     


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笑う自由

 

人はどうしようもない悲しみ、苦しみに遭うと、そこから抜け出す(生き抜く)

ために最後は(一時的にせよ、すべてがバカらしく無意味に感じられてくるのか)笑うことが

ある。

(正確には「笑ってやりすごす」。

別に「」わなくても、人によっては「やむまで泣き続ける」のもいいかもしれない。

何にしたって大事なことは、自分で選んだ自由な姿、態度であること)

 

 

 

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                       ちりとてちん

あめんぼの あめんぼを見る 目の高さ  池田澄子

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