戦後の、いちおう民主主義社会といわれている世のなかで育ったので、男女平等、
差別はいけないと教わった。
教わっていても、これは「差別じゃない、区別」と言いわけしたくなるような、
差別くさいしぐさが(ほんのたまではあっても)出て、ドキッとすることがいまだある
東京オリンピックの森喜朗発言のように表にでたかどうかの違いだけで、
行為にまで進まないだけで、意識だけなら私にもある。
恥ずかしい。
机のうえだけ、ちょっとだけ、頭だけ「男女平等」「民主主義」を教わり、
それだけで「人間みな平等、民主主義はたいせつ」となるわけではない。
正直、ここまで長く生き、いまの日本(だけではないけれど)を見ていると
「差別のない社会」「人間みな平等」「民主主義」は真理なのかと疑われてくる。
国民の格差はますますひろがり、半分以上の国民の意見を押しきって国葬を
強行しようとする政治のどこに民主主義が感じられようか。
(政権与党は自分たちの親分だった人だから、その人の死を悼む儀式を国民全体に広げようとする
ことは民主主義に反していてもわかる。けれど、野党のうちにそれを支持する「維新」「国民民主」
までもがいることはわからない。解せない。
「維新」「国民民主」というのは早く「化けの皮」をぬいで、与党入りしてほしい。そうすれば、
「同じ穴の狢」性が国民の目にもわかりやすく見える。
《親分の死で統一教会との癒着が明らかとなった「歴史の皮肉」。時を前後してエリザベス女王が
亡くなり、また「国葬」という言葉を聞くことになった。これも「歴史の皮肉」だろうか》
歴史は人類の理想にむかって進んでいるという考えがあるけれど、「真理」や「理想」はこうだ、
こうあるべきだという価値観のほうを疑ってみなければならなくなったのかも…。
最近よんだ本に、AI技術やバイオ技術の急激な発展で、ひと昔までならSFだけの世界がいまの小さな
子どもたちが大人になるころには現実の話になることが書かれてあった。
本には「自由」「平等」「基本的人権」「民主主義」など、人類が長い歴史をかけて勝ちとってきた
理念が、道徳・倫理つまり「人類の正義」や「幸福」との関連で述べられており強く考えさせられた。
自分はとうに死んで存在しない未来の世界とはいえ、孫たちはまだ生きている。
孫たちの世界を想像しないではいられない)
「平等」「平和」「民主主義」が疑われても、わからなくなってきても、
生きている限りは信じ、追いもとめたい。
孫たちのためにも。
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書名の「いのちの文化」に惹かれ、
『いのちの文化人類学』 波平恵美子・著
を読んだ。とても強い刺激をあたえてもらった。
一つに、いのちのつながり方としての「父系性」「母系性」ということがあった。
男女のあり方を、現代人としての私たちが言いそうな(うえに書いたような)
「民主主義」とか「平等」とかの観点からでなく、いのちの持続・維持という
生きものとしての原点にたつとき、自然に立ちかえって人間を見ることの必要、
たいせつさを痛感した。
「目から鱗が落ちる」話がいっぱいあったけれど、三つだけ。
① 「生殖と性」(生むのは女性)
② 「いのち」
③ 「病人を見ずに病気を診る」(現代医療)ということ
(きょうは①だけです)
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① 「生殖と性」(生むのは女性)
次の引用部分を読み、私は「母系性」をはじめて自覚し、衝撃さえうけた。
【引用】「〈出生と無縁な「母の夫」(父)〉
私達は、性行為と妊娠および子供の出生との間に因果関係を認めないトロブリアンド
(パプアニューギニアの小さな島に住む種族)の人々を「無知蒙昧」と評するのではなく、
何よりも「子供がこの世に生まれ出た時、その子にとって誰の存在が最も重要なのか」ということを
この人々がよく認識している点に注目すべきである。
…
〈解けない謎-男も女から生まれる〉
父系原理の強かった武士階層が「女の腹は借り物」と言って、子供の出生における母親の役割を
否定しようとしたのは、ちょうどトロブリアンドとは逆の関係になっている。…
「女の腹は借り物」という表現は、父と息子の関係に高い価値を置いた武家社会…
(武家では母親は子供に乳を与えなかった。「乳母」が与えたという)理由の一つは、
母と子の関係が父と子の関係よりも濃密になることを防ぐためであったと考えられる」
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日本は「父系性」。あえて「母系」を意識したことはなかった。
(というよりか、そもそも「家系」というものを意識すること自体がなかった)
私の「家」は貧乏な庶民だから、何代にもわたる祖先をたどることができる、
血筋がはっきりしている、いわゆる「名家」ではないので、とくに「家」を
感じることはなかった。
(しかし、自分の名字、姓を他人から呼ばれるときは《「名家」ではなくても》「家」や「一族」を
感じ、曾祖父、曾祖母はどんな人?と思ったことはある。
テレビドラマでは遺産相続をめぐる遺族同士の確執がよくある。こういうのを見ると自分のところは
「貧乏でよかった」と負け惜しみでなく思う。
旅番組などでは「私で〇代目になります」と老舗のご主人がカメラに向け《ときにはつくったような》
にこやかな顔、得意顔されるけれども内心はどうなんだろう?看板や伝統、歴史ある家に生まれたら
それなりの苦労を覚悟しなければならない。たいへんだろうと、これも負け惜しみでなく同情する)
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トロブリアンドは「母系制社会」。
「「子供がこの世に生まれ出た時、その子にとって誰の存在が最も重要なのか」
ということをこの人々がよく認識している点に注目すべき」ということ。
文明・文化の発達している社会は、ほとんど「父系性社会」なので、逆にいえば
「父系性」であったからこそ、ここまで発展したのかもしれない。
しかし、母親、女性中心の社会だったのなら、人類の歴史はこれほど戦の多い、
血なまぐさいものとはならず、これほどの文明・文化の発達は見られなかった
としても、何よりいちばんにいのちが尊ばれる、平和で穏やかな社会だっただろう
(そんなことを考えていたら文明・文化の発達ということについてふと思った。
戦争に勝つための研究開発から、原子爆弾、インターネットなどの科学技術が生まれたことは今では
多くの人が知っている。《こういうことをいうと「女性差別」という人もいるかもしれないけれど》
男性の方が他人に勝とうという気もち、競争心が強く、それが科学技術の発展につながっていると
思った。また、歴史に名を残すような文化・芸術にも男性が多いのは、頭脳をつかい発見・発明し、
感性をみがき作曲、絵画・彫刻など創作に励めるだけの拘束のない、自由な時間がもつことができた
のは男ばかりだったからではないだろうか。
時代が現代に近づくようになり、女性の活躍が増えてきた。日本では「戦後、強くなったのは靴下と
女性」という言葉がはやった。それは女性の競争心が向上した《それもあるかもしれないが》のでは
なく、それまで埋もれていて開くことのなかった個々の女性の能力が《古い時代より》発揮できる
ようになった。
もう一つ、動物のメスとオスについても思った。
動物の生態をあらわした番組をみると哺乳類、鳥類など「高等動物」の多くは、赤ちゃんやヒナが
ひとり立ちできるまで、母親《メス》がいのちをかけて育てる。
オスといえば、後の「育児」までかかわる律儀者も中にはいるけれど、おおかたは先の本能のなせる
肉体的な行為(性交)だけで終わり、後は「母まかせ」というわけだ。
「子供がこの世に生まれ出た時、その子にとって誰の存在が最も重要なのか」は、人間も変わらない
はずなのに。
またこんな映像も映しだされる。一匹のメスに、自分の遺伝子を残そうと大勢の「われ先に」と群がる
オスの魚。一匹のメスに、ご指名してもらおうと必死に「着かざり」「踊る」オスの鳥。
見ている私も人間のオスだけど、「おまえさん方もたいへんだな」と泣けてくる)
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先にすこし触れた本のこと。
私たちは未来社会をほんらいユートピアとして描いていたのに、驚くようなAI、
ITやバイオなどのテクノロジーの進展で、現実にはディストピアとして訪れそう。
お先まっ暗…
といっても、もちろん、ITの進化は仕事をとられるとはいってもロボットが人間の
苦労を大幅に助けてくれ、バーチャル世界での遊び、ゲームはますますおもしろく
楽しくなり、ゲノム編集技術の進展はほとんどの病気をなおし、いや罹らない
ようにし、長生きもさせてくれ、「エンハンスメント」という身体や能力の強化
さえもしてくれる。望めば「不老不死」さえ夢ではなくなる。
できることはいっぱいなのだ。
だが、それは私たちの望んだ未来、世界なんだろうか?
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「女の腹は借り物」という表現は、父と息子の関係に高い価値を置いた武家社会」
(「女性は産む機械」と言った大臣がいたけれど、失言はだれでもあり得る。
たぶん、この人はそういう発言が無意識のうちに出てくるような家で生まれ育ってきたのだろう)
「乳母(うば)」というのは聞いたことはあったけれど、「乳母」と呼ばれる女性を
私は見たことはない。
この本には、武家では母親は子に乳を与えなかったと書いてあった。
「理由の一つは、母と子の関係が父と子の関係よりも濃密になることを防ぐため
であったと考えられる」
ここを読んで、母乳は赤ちゃんを産まないと出ないというが、乳母はどこから
母乳を調達したのだろうか?と、どうでもいいような疑問をもった。
(いや、どうでもよくない。赤ちゃんは母乳なしでは育たないだろうし、こんな昔に人工ミルクが
あったはずがない。
乳母というのは武家の母親と同じころ、赤ちゃんを産んだ下層階級の女性だったのだろうか)