カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.3.13 『存在論的…』③

                                                  カメキチの目

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③の今回は、「幸福」ということです。

(本書の紹介のしかた、感想などに私の主観がかなり入っているような気がしています。お許しくださいね)

 

 人間の生きる目的は、「私はとくにないよ」と言う人もいようし、いても人によってさまざまに違いない。

 

 でも、「幸せ」でありたいとは誰もが一致するに違いない。 

 

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 幸せであるときは、おそらく自分が好きになっている。

 つまり、よくいわれる「自己肯定感」というものに包まれている気がする。

 ②で「WHOLE」を書きましたが、この英語の意味「全体の」「まるごとの」…は、ここでは長所も短所もひっくるめてということ(でも「長所・短所」というのは固定的なものではない。ある個性が「長所」となったり「短所」となったり…)。

「自己の存在まるごと」ということ。

 

(ここまで書いてきて、私はあの「森友学園問題」で直接ことに当たっていた方《役人》が自殺したと聞いてやり切れない気もちになりました。

きっとその人も幸せになりたかったでしょう。

森友問題は、ついに最悪の事態を引き起こした。人が死ぬというところまできたのです。「自殺」というのは自己否定の極限…。

ここまでして、安倍やその内閣が失いたくないものはそれほど価値あるものなのか)

 

 著者、芹沢さんは言う。

「『ある』を軸にした幸福感」

 「ある」とは「存在」のことである。

 私はこの考えかたに息をのんだ。

 本書から引用:「(そのような幸福感は)引きこもっている我が子の現実を否定的に捉えているかぎり、感じることができないものです。…

仕事などなにかを「する」こと、なにかが「できる」ことを軸にして成り立つ幸福感とも違います。この「もつ」や「する」を軸にした幸福感とは別な次元の幸福感を、「ある」を軸にした幸福感と名づけてみます。引きこもっていようといまいと、なにかをしていようといまいと、なにかができようとできまいと、そうしたことに関係なく、「お互いが、いま・ここに・共にいる」ということへの肯定が生み出す幸福感のことです

 

 ただ「ある」とか「いる」。

 存在しているだけで肯定される、認められるということ。

 自分にいちばん身近な存在が(現実的にはそれが「家族」であることが多くても、そうとはいえないことだってあるでしょう。ウンザリするほど家族の不和を原因としての事件が起こっています)肯定的なまなざしを向けていてくれること。

 

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「存在」というのは本源的なもの。役に立つとか立たないとか、意味があるとかないとか、そういう上っ面なものではありません。

赤ちゃん・お年寄り・障害者…社会的弱者とよばれる人たちも、病におかされたか傷ついた場所が身体か心の違いだけの人たちも、なんら変わりはしない。

 

 よくいわれることだけど、「人はひとりでは生きてゆけない」。

 ということは、人は相互的な(お互いさま)存在。

 自分の在りようは、必ず、相手に届き、伝わり、再びかえってくる。

 自分が信頼する、自分をそばにいていちばん見守ってくれている身近な人が自分を認め、その人(相手)が幸せそうだったら、その幸福感がこちらに伝わってくる。

とはいっても、その相手にいつまでも寄りかかっていては(甘えていては)、もしもその人が自分より先にいなくなったら困ります。困らないためには、そのときになって慌てふためかないためには、こっちも幸せをふりまかなくては…

私は完全に困る部類にはいりそう…笑ってごまかすしかないか…

 

                ちりとてちん

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