「おかあさんだいすき」という記事に引用した柳田邦男さんの本
『言葉が立ち上がる時』からの二つ目の話題は、有名な絵本(童話)
『葉っぱのフレディ』からです。
自分の人生を、自分を超えた大きく広いところから
一篇の物語のように見てみよう。
【引用】
「『葉っぱのフレディ』で凄いと感じたのは、
そのときはじめてフレディは 木の全体の姿を見ました
というくだりだ。
人間は誰しも、自分の人生の全体像をたえず見ていきているわけではない。
一人の人間の全体像が見えてくるのは、まさに人生が終わろうとする時、
つまり死に直面した時だ。人生の途上においては、なかなか自己肯定感を得るのは
難しい。山あり谷ありの長い人生の旅路をじっくりと俯瞰するだけのゆとりがない
ためだ。…
歳月を経て振り返ると、…それらの全体を一篇の長編物語としてとらえるなら、
山も谷も共に愛しいまでに大切な要素として見えてくる。
「木の全体像」とはそのことなのだ。
そして、〈なんてがっしりした 逞しい木なのでしょう〉というのは、
これまでは大して意味のない吹けば飛ぶようなものだと思っていた自分の人生
だったが、それをじっくりと振り返ってみると、人生が物語となって見えてくる。
すると、《いやあ、いろいろな出来事があったけれど、よくぞ頑張ってここまで
やってきたものだ。少しぐらいは褒めてやってもいいだろう》という
肯定的な気もちを持てるようになる。」
(注:赤太字、下線はこちらでしました)
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「人生を物語にしてみる」。私はすぐ河合隼雄さんを想った。
柳田さんのこの本にも、たびたび河合さんの言葉が引用されていた。
(前に河合さんの言葉を引用した記事を書いたが、そのときは意識になかった)
「全体」を、こんど初めて自覚した。
無数の葉っぱの中から、『葉っぱのフレディ』の著者にたまたま拾われた一枚が
「フレディ」という名前をつけられ、その一生涯が想像され一篇の物語となった。
私は、「たくさんの中の一枚」という、いってみれば空間的な横の広がりに、
そのことだけに気を向けがちだったけれど、同時にフレディという葉っぱ一枚の
「一生」、生まれ(枝に葉をつけ)死ぬ(散る)という時間の経過、流れ、
縦の広がりの中にもっと目をやらなければならなかったことに気づいた。
終わりに近づいて、やっと「全体」を見通せられる
ようになった。
ふだん意識するとしないにかかわらず、過去を振り返ることはよくしているが、
自分の過去を「全体」として見ることは老いるまでは、しなかった。
というか、できなかった。