カメキチの目
ひきこもりは、「社会的ひきこもり」論の立場に立てば「あってはならないもの」とみられる。
つまり、否定的なまなざしでみられる。
つまり、解決(解消)されるべき(されなければならない)ものとされる。
理由は何であれ、ともかく「普通」の人間が歩むべき道を通らない若者(大人)が、「社会問題」となるほど増えてきたという。
「ひきこもり」は学校教育の場での「不登校」と共通するところが非常に多い。
本書から引用:「労働しない、コミュニケーションしない、結婚しない(であろう)「状態」にある青年がここ四十年《本書の出版は2010年。ということは1970年代ころから》ばかりのあいだに大量に登場してきた」
そもそも、「『普通』の人間」というときの、「普通」ということが問われなければならないと著者は言う。まったく私もそうだと思います。
はじめに述べたように、「社会的ひきこもり」論はひきこもりは社会的に問題だ、問題だから解決するという。
そこで、解決するために医療における精神科、心理療法…。支援に向けてのNPO法人などのさまざまな取り組みや活動…。これらの、善意からであってもれっきとした「産業」が存在する。
「産業」構造というものはいったん形成されれば、それはそこに従事する人がそこから外れれば「失業」という事態を引きおこすことになりかねないので、逆に、その産業の必要(需要)がなくならないように働くのではないかと著者は言う(「原発」のように)。
(イヤな表現ですが)『ひきこもり』はつくられる。
「産業化」ということで著者は述べています。
本書から引用:「かれらにとって、「ひきこもり」は、治療の対象ではなく、「ひきだし」の対象でした。治療よりもっと実際的、かつ直線的な仕事、引きこもっている人を、親の依頼で引き出すことでした。引きこもったのだから、引き出せばいい、という論理です。…
引きこもる人たちが社会秩序の否定的なまなざしを浴びるようになったのは、引きこもる人たちという「周辺的な個人」の棲む周辺的領域の裾野があまりにもひろがってしまい、社会的秩序に不安や脅威を与える一群とみなされはじめたというのが現状ではないでしょうか。「個人」という域を超えて、集合的(集団的ではなく)存在として「問題化」してきたという捉え方をされるようになったと思われるのです。
よく引きこもっている人が「理由がないと安心して引きこもっていられない。だから病気になるとホッとする」と言います。公認の理由がほしいということは、引きこもっている人たちが社会の否定的な視線を感受していること、を物語っています。精神科受診は、引きこもっている人にこのような安心感をもたらすはたらきがあるのです。
多くの場合「産業的動機」は、「善意」の動機の下に隠されています。…
無力ゆえに支援を求めている、こうした物語こそが今日まで「ひきこもり」医療市場、支援市場を成立させてきた根底にある要因です。そして、この物語に沿って、あるいはこの物語に誘導されて、「社会的ひきこもり」と呼ばれる若者たちと、その無力な家族が大量に発見されていったのです。…」
「WHOLE」という英語がある。
じつはこの「WHOLE」が、本書のはじめの部分で「存在(論的)」と同じくらいたいせつな言葉として出てくるのだが、私は何かの略語かと思っていたら、英語の語彙「WHOLE」そのものだった。
すなわち、「全体の」とか「すべての」とか「まるごとの」…。
著者は、何よりも「ひきこもり」本人、当事者の立場によりそってものごとを感じ、思い、考えることのたいせつさを説く。
「WHOLE」の姿勢のたいせつさを説く。
(言い方は違っていましたが、『つながりの姿勢』でも同じようなことがなんども述べられていました)
本書から引用:「わたしは、あなたがいまそのようにあること、そのようにしか存在し得ないことを承認する。そして、たとえ引きこもることについての見解があなたと異なろうと、あなた自身の意欲にもとづかないかぎり、そのようなあなたの現実を修正するよう要求したり、強制したりすることはしない。あなたのいま・ここにある現実をまるごと尊重する(WHOLE=存在のまるごとの受けとめ)の姿勢」