カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.3.28 受難

                                                  カメキチの目

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 もう7年目になった。

 2018年の3月11日。きょうは28日なので、日にちに換算すれば365×7+(28-11)=2572日。

 

 先日の朝日新聞の連載コラム「折々のことば」に、(半世紀きにわたって世界中の地震津波、風水害など自然災害だけでなく、テロや感染症、事件、事故など「人災」も、現地に出向いて調査・研究、その成果をもとに防災・危機管理を啓発し続けている)山村武彦さんという方の言葉が載っていた。

 

 「犠牲になった人と、助かった人の間に明確な理由や共通の法則などありはしない」

 
                         らかんさん

 ちょっとした時間のズレ、そのときたまたま自分が居た場所、そのときの状態、心の迷い(いっこくも早く逃げるべきか。だいじな家族が残っていないか確認し、家族写真だけでも持ちだしに家まで行って引き返すべきか。徒歩でだいじょうぶか。車に乗るか…)などが生死を分けたという。

 コラム担当の鷲田さんは、生き残った人びとはそういう偶然の差(それは「理不尽」といわざるをえないものであり、それを認めたくなくても)を認めざるをえない辛さを抱え込んでいても、死んだ人への後ろめたさを抱え込んでいても、今日を生きるという。

正確にいえば、死なないかぎりは「生きざるをえない」。

 

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 私は「災難に遇う」といえばすぐに、良寛を想う。

 相好をくずして子どもと手まりをついて遊んでいるあの良寛和尚さん。その良寛の言葉に、

(ちょっと誤解をしやすいのですが) 

災難に遇ふ時節には災難に遇ふがよく候、

死ぬ時節には死ぬがよく候、

是(これ)はこれ災難をのがるる妙法にて候

 良寛が71歳のとき、住んでいた故郷の新潟を大きな地震が襲い大惨事になった。受災した良寛への知人からのお見舞いのお礼の一節)

というのがある。

 

 可能なかぎり防災のための具体的な準備は行い、防災の心構えは持たなければならないが、それらに自分で納得した(ここがミソ。「納得」すること。これでヨシとする)ならば、あとは「天命を待つ」。平常心をもって過ごす。

けっきょく、何か災害が起き、それに遭って初めて「災難」となるわけなので、災害に遇う前からあれこれ心配して現実生活をないがしろにするのはよそう、ということでしょう。

 

これは余談ですが、あらためて「納得」ということのたいせつさを思いました。

いまの場合は災害に遇う話で、「これでヨシ!」「ここまで(やったから)ヨシとしよう」という自分と(「それだけでいいのか?」とささやく)もうひとりの自分と折り合いをつけます。

 

公的な場では、よく「説明責任」といわれますが、聞く側(たいていは国民、庶民)が納得しなければ「説明責任」は果たされていないことになる。つまり折り合いはつけられていないことになる。

どおりで、政府の会見などが「言いわけ」「弁解」に聞こえるわけですね。こっちは納得していないのに…

 

           

                 ちりとてちん

 

 

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