書名にひかれ、短編集
『ポケットアンソロジー 生の深みを覗く』 中村邦生編
(グーグル画像より)
という文庫本を読んだ。
私は、デリケートな感覚や細かな神経をつかわないといけない(理解できない)
物語は苦手だ。
(本にはいくつかの短編小説が出てきたが、読みおえたのは3割くらいであとはダメだった。
「生の深み」を感じるより眠気を感じてばかりだった)
その中で、『ガーシュウィンのプレリュード第2番』(バクスター著)というのは
とてもわかりやすく、つぎの言葉がとても心にのこった。
【引用】
「「退屈には優しさと慈悲があります」マダムはおだやかに言った。
「だから約束して下さい。今からはもう始終祝杯をあげたりしないと。
年がら年じゅうしあわせを求めたりしないと」」
この短編の主人公は30くらいのしがない独身女性。
人はよいけれど、さびしがりやで、何人もの若い男にだまされてきたのに
またまた信じた(人がよいからかさびしがりやか、すぐ信じる)彼にも裏ぎられる。
彼女は生活のために働きながらも、マダムにピアノを習っている。
マダムというのは、かつてはピアノ演奏で活躍したがいろいろ深い人生経験をへ、
いまは階下に食堂、階上にスタジオをかまえ、ピアノを教えている。
男に裏ぎられ、去られてまたひとりぽっちになった主人公。
友だちへ愚痴をいい慰められるけれど、さびしさはうめられない。
ある日、さびしさを酒をのんでまぎらわそうとし、酔う。
酔ったままピアノのレッスンに臨んだとき、マダムに言われたのだった。
「退屈」ということ、「しあわせを求める」ということ。
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「退屈」について。
若いときはやっぱり私も人なみに活動的だったと思う。だから退屈することも
あっただろうし、タバコはよく吸った。ただ、なにに退屈したのかは具体的に
思いだせない。
いまは老いたし、身体は不自由になったこともあり、「退屈」という無聊な状態で
あってものんびりしていいなぁと感じる。
「のんびりゆっくり」にすっかり身がなじみ、いまじゃ「退屈」という言葉さえも
思いうかべたことがない。
でも、マダムの言葉「退屈には優しさと慈悲があります」に深くうなずいた。
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「しあわせを求める」について。
(この前、中国のことで「幸福」「しあわせ」と書いたばかり)
「幸福」「しあわせ」というのは主観的、この自分が感じる、思うものだから
人によってまちまちだ。
Aには「しあわせ」と感じられても、Bには「ふしあわせ」と感じられることもある
(「健康」「家内安全」などだれにも共通するものもあるけれど、そうであっても「しあわせ」は自分で
感じるものだから、主体的で、やっぱり個性的だ。
それに主体は同じ自分でも、時と場合により変わる)
これも、マダムの言葉「年がら年じゅうしあわせを求めたりしない」に深く
うなづいた。
しあわせは、感じるもので求めるものではないのだ。