カメキチの目
第三章 人に見られる動物たち-動物園動物
第四章 ラボから始まるいのち-家畜・実験動物からヒトまで
第五章 あふれる野生動物との向き合い方-野生動物
第六章 東日本大震災と動物
ちょっとはどこかで見聞きした話があったので、日ごろ感じてはいても、「そうだったのか」ということがとても多かった。
【動物園動物】
・人気動物はマスコミがつくり、あおる。
ある人気チンパンジーやパンダの赤ちゃんや「立ちあがるレッサーパンダ」など。
テレビや新聞にはいいネタとなる。
かって動物園園長もしたことのある著者の獣医師は言う。人気動物もいいけれど、せっかく動物園に来たのだから、ほかの動物も見よう。自分のお気に入りが見つかるかもしれない。
・お気に入りには名前をつけたくなる(人気動物にはたいてい名前があります)。
日本の動物園では、それが可能な動物には個別に名前をつけて飼育、管理する(飼育側・来園者側双方にメリットがあり、好まれます)。
そこには、動物(正確には動物をふくむ自然一般)を支配・管理の対象とみる西洋とちがい、人間との心理的距離があいまいな日本の文化的、宗教的な違いが背景にあることが見うけられる。
名前をつけることのメリット、「功」ばかりでなく、デメリット、「罪」の面にもっと目を向けねばならないのではないかと著者は言う。
命名することにより、自分との親近感が強くなる(前回の記事。ある小学校の「食育教育」で、ブタを飼い、そのブタに名前をつけて《命名だけで愛情が強くなるもんではないでしょうが》ペットのようにかわいがった話を思いだす)。擬人化する。
それはいいことなのだろうが、自分の価値感を通して動物をみることにつながりやすい。
人間を抜いた「自然」というものは存在しないのかもしれないが、動物たちを正しく理解する努力は必要。
ときには冷めた目で動物たちをみることもたいせつと、著者は続ける。
・NPO「市民ズーネットワーク」が「エンリッチメント」大賞表彰という取りくみをしている。
「環境エンリッチメント」とは、動物園動物が退屈することなく、生き生きと動物園で暮らせるよう、(いい意味で)刺激的な飼育環境を工夫すること。
動物園の目的のひとつが野生動物の保全にあるにしても、来園者があってこその動物園。人にみられ、ふれられてこその動物園。
動物たちには生き生きしていてほしい。生き生きとした姿を来園者は見たい。
ほんのたまたま捕獲され、動物園で暮らすことになった野生動物たち。彼らが少しでも過ごしやすい環境、野生で生きていた自然に少しでも近い生活環境を用意するよう人間は努力しなければならない。環境エンリッチメントに気をつかわなければならない。と著者は書いている。ほんとうにそうだと思う。
【家畜・実験動物からヒトまで】
-第四章 ラボから始まるいのち-は、1年前のシリーズ記事『心配してもしかたない?みらいのこと』に重なることが多いので略します。
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この本で、私がいちばん印象に残ったのは、第五章と第六章。
著者は、第五章が日本の野生動物(専門はシカ)を保護・管理している人、第六章のほうは動物の生態を研究してる人。
詳細は本書に譲って、私が強く感じたことのみ書きます。
この頃はニュースでよく、クマが人里に現れた、ときには人を襲ったと騒がれる。
クマいじょうにイノシシの出没が多い。
私も働いているとき、通勤途上、複数のイノシシが道に沿った小川の土手を降り、反対の土手にかけ上がっているのに出あったし、勤務していた子どもの施設の給食室にサルが入ってバナナを盗む(失礼! 「盗む」のじゃなくて「とる」)こともありました。
道路を走っていたら目の前をシカが横ぎったという話もよく聞く。
シカやイノシシの食害が〇〇億円というのもしょっちゅうニュースが報じている。
そのような日本の農山村(「防衛ライン」《人と獣の境界線》が今日では都市近郊までさがった)の実態の背景には人口が大幅に減りつつあるという状態がある。
「限界集落」という、かつてはなかった言葉ができ、全国あっちこっちで農山村が消えようとしている。それに伴い、「防衛ライン」は前進しつつある。つまり、都市部に近づいている。
そういう現状に著者は、次のような大胆な施策(こんな「大胆な」施策をしなければもはや手はないと私のようなシロウトでも思う)を提案する。
〈農山村に若者を呼びもどす〉
日本の野生動物たちと共存(人間との棲み分け)ができるよう、増えすぎたら獲れるような体制もつくってゆく。
日本の人口は減るけれど、世界、地球に目を向ければ、現在の71億人から2050年には95億人を超えると予測されている。地球的規模で不安定化する気象、温暖化などの影響で食糧生産が乱れ、供給が追いつかなくなると危惧されている。
食糧生産基地としての農地を取りまく環境を、野生動物が出没しにくい環境へと転換し(食糧増産。自給だけではなく輸出もできるように)、増えすぎたイノシシ、シカなどのジビエ料理をもっと一般的に、たとえば学校給食などでも食べられるようにする。そして、食糧難にあえいでいる国々に輸出、援助する。
一石二鳥。
また、「三鳥」にもできる。
本書からの引用
「 一方、農作物の非利用部分、集落周辺の樹林地の藪、耕作放棄地や河川敷に繁茂する草木、森林施業で出てくる間伐材や枝葉、増殖する一方の竹林、空港や都市の造園植物の維持管理まで、毎年、確実に大量の植物廃棄物が生産されてくる。それらは放置して土に返すか、予算を使って焼却処分されている。これについても、資源として利用することができれば、毎年の刈りはらいにかかる予算をカバーすることができる。→バイオマス・エネルギーとしての活用…」
最後の章、「東日本大震災と動物」では、初めの著者の言葉が強く身にしみた。
なんでも経済、カネに換算する。経済、カネでは置きかえられない「いのち」。
ここもすみませんが、私のヘタな言いまわしよりも著者の言葉がズバリ迫るので引用します。
「(線量が一定基準よりも高ければ出荷禁止となった)それによって収入を得ていた人は減収になり、消費者‐基本的に都会生活者とみてよい‐も食べたいものが食べられなくなるので、お互いが被害を受けるということになり、被害の範囲が拡大する。私が違和感を感じるのは、この「被害問題」がとりあげられるとき、被爆した野生動物が被害者だという論調がまったくないという点である。…(ことの本質は)これまでに経験したことのない人災を起こしたということにあり、それはお金にすれば数兆円とか…そもそもお金に換えることなどできることではない。この大問題を食品の流通という次元に下げて論じるのは‐おそらく意識してのことではないだろうが‐問題の矮小化である」
ついでにひと言。
獣医師が足りているかどうか。今治を特区にする必要があるのかどうか専門外のこっちにわかるわけはないですが、今治に限らず、全国あっちこっちで獣医師をはじめ、動物に関わる仕事をする人を増やせばすばらしいと思います。また、「野生動物専門員」とか新たな職種をつくるのもいい。
いつなんどき鳥(に限らず)インフルエンザが流行るかもしれません。そういうことにもすばやく対処し、被害を少なくする。家畜に感染し、大量のニワトリなどが刹処分(「狂牛病」のときはウシ)されるのをテレビで観ていて心が痛まない人はいない。
動物(植物もですね)に詳しい人たちが増えれば増えるだけ、「動物福祉」という考え方のすそ野がひろがっていくのではないかと思います。
「加計学園」問題は、「問題」であるからいけないのであり、ここで獣医師をめざそうとする若い学生さんにとってすばらしい「学び舎」になってほしいです。
教える側の先生は加計理事長や長年の某親友とは真反対な方たちだと信じます。