カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.6.9 老いの価値

最後は、山本周五郎の言葉深沢七郎の『楢山節考』からの「老いの価値」

ということです。

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山本周五郎

こうした人生の見えざる真実を後からくる若い世代にしっかりと伝えられるのは、

やはり人生の先を歩んで修羅をくぐってきた老人なのである。

深沢七郎の『楢山節考』より)又やんにはおりんとおなじような命の連なりにたいする確信

なかったからではないか

死をあらんかぎり拒否し生にあらんかぎり執着する現代人は、

楢山で惨死した又やんとおなじではないか。

 

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山本周五郎の小説は、弱い人々、庶民の哀歓を感動的に描いたものが多い。

私は映画やテレビでドラマ化されたものに親しむことが多かったので、

小説本を読んだことはほとんどない。

 

この本、『年をとって、初めてわかること』で著者の立川昭二さんは、

人生の見えざる真実を後からくる若い世代にしっかりと伝えられるのは、

やはり人生の先を歩んで修羅をくぐってきた老人の作家の一人として、

「老いの価値」という項目で山本周五郎を取りあげていた。

(もちろん山本周五郎でなくともよい)

大切なことは、人生の見えざる真実を後からくる若い世代にしっかりと伝え

ことだから。

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楢山節考』は「姥捨て」の話

 

            

                 (グーグル画像より)
姥捨て(お爺さんも)伝説は有名なので小説
楢山節考』だけではなく、

内容に少し変化があるだけで大筋は同じものが、民話などの形をとおして、

いろいろなところで語り継がれてきた。

 

若いときから姥捨ても楢山節考』も知ってはいたが、本で読んだことはない。

お婆(母)のおりんを息子の辰平が背負子にせおって…の部分は知っているけれど

又やんの話までは知らなかった。

 

又やんというのはおりんと同じく、村の風習でもうじき姥捨て、棄老される

(されなければならない)はずのお爺さん。

が、「又やんにはおりんとおなじような命の連なりにたいする確信が」い。

 

又やんは、「死をあらんかぎり拒否し生にあらんかぎり執着する」けれど、

村人が食ってゆく、生きてゆくには食べるものが足りないので、(「姥捨て)

守らなければならない。

結局、彼は無理やり「楢山で惨死」させられる。

 

私だって死にたくない。長生きしたい。

(たぶん「現代人」だからではなく「生きもの」だから死にたくないに違いない。

しかし、自分は人間だ。人間だから社会の掟、ルール、法には逆らえないか?そうではあるまい。

おりんたちの村では一生懸命働いても、生きても村のみんなが食えなかったが、おりんたちのおかげで

働かなくてもたらふく食う者どもがいた)

けれども、又やんと同じような死、死に方はしたくない。

そう思うが、こればっかりは又やんと同じような立場にならないとわからない。

自信はない。

 

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

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