カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.6.13 「偶有性」 「たまたま」

『脳のなかの文学』  茂木健一郎 ・著

という本を読んだ。

 


たくさん刺激されることがあった。

が、初めにあった「世界を引き受けるために」と、終わりの「複製技術時代」の

二点だけ、次回と次々回に書くつもり。

その前に、今日はその二点を含めて本全体を貫いている(と、読者の私は感じた)

著者の人生観、世界観の「底」というか、根本的な思い、考えに触れます。

 

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それは、偶有性」ということ。

 

私は前に、茂木さんの本から「偶有性」という、物事のとらえ方、見方を知り、

強い衝撃を受けた。

 

「自分は茂木健一郎だが、茂木健一郎でなかったかもしれない」

茂木健一郎と生まれて、茂木健一郎として生きているが、そうではなかった

かもしれない」という意味のことが述べられていた

いまの自分がこうなのは、こう在るのは「たまたま」に過ぎない。

 

たまたま」は、他のさまざまな可能性があったけれど、

(自分という具体的な一人の、《そうとしかあり得ない》一回かぎりの人生においては)

他のすべての可能性を排して、「いまここ」の自分として現れている。

 

そういう現れを「現実」といういう。

 

      


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偶有性」とは、要点だけいえば、ネットにあるように、

半ば規則的で半ば偶然の出来事を表現する言葉で、ある程度は予想できるが予想できない部分もある

ことを指している。

知って以来、人生や社会の物事の何かにつけ、「偶然」「必然」「偶有性」を

当てはめて考えてみようとした。

 

「現実のいまの自分」「現実のいまの人生」はこうであるが、こうではなかった

かもしれない。

私が茂木さんで、茂木さんが私だったかもしれない。

それにまた、自分は同じ自分であっても、過去の出来事の有無を仮定したら、

その出来事により現在のあり様は変わっていた(変わっていなかった)かもしれない

(たとえば私は木から落ちて、現実には障害者になったけど、死んでいたかもしれない。

そもそも、木から落ちるということが起きていなかったかもしれない)

 

たまたまにすぎない」「たまたまこうある」とはいっても、

一人の人間の、一回かぎりの人生においては、こうでしかあり得なかった、

他ではあり得なかった、存在し得なかったということの重み。

その重み、かけがえのなさを痛感する。

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自分が誰かさんだったかもしれないと想うことは、

その誰かさんをはじめ、他の人との繋がりを感じることになり、

こうではなかったかもしれないと想うことは、

別な自分の可能性を感じることになる。

 

その世界はまさに文学だ。

誰にも当てはまる、誰にも共通する、一回かぎりでなく繰り返しがきく科学

真反対。

 

しかし、表面的には「真反対」に見えても、「自分が誰かさんだったかもしれない

と想うこと」は、まさに「誰にも共通する」ということであり、

人間や人生を科学的に見れば文学的なあり方をしているわけだ。

 

著者は脳科学者だけど、人間、人生に対する思い、関心は文学者のように強い。

それで、『脳のなかの文学』を書いたのだろう。

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

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