カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.6.6 幸田文と田辺聖子の言葉

今日は、②幸田文田辺聖子の言葉です。

 

幸田文

老人が軽いというのは、…「時間の扱い方が軽い」ということで、

時間を軽く障りなく、淡々と扱っていく」ということである。…

(それは「大事に扱わない」ということではなく)軽やかに扱うということである。…

たとえば、日がな一日、あきずに花に見惚れている、軽ささえも忘れているような時間を送る

「老後の仕合せとは、小さい仕合せを次々と新しく積み重ねていくことではないか。…

仕合せには、永代続くものなどない…」

改めてあたりを見廻すと、今まで気づかなったことで、なんとまあ興ふかいことがたくさんあるか、

おどろくのです」

 

田辺聖子

「私は何もしないで、じっと思いにふけっているという楽しみを、八十になって発見したが、

それは枯淡、というようなものではない。雨の冷たさのおもしろさ。山頭火ショパンの取り合わせ

よろしさ。ローズ色の服の着心地のめでたさ。やがて咲く若木の桜の春をまつ心はずみ」

「内なる楽しみ」

万物みな、一期一会のなつかしさ、しかしそれは若い人が想像するだろうように、悲しくも

淋しくもない。ほっとするような安らぎである。

何もかもがこの世での見納め、と思えば、時間も濃密に流れ、人生の楽しみの底は深くなる

「ああ、こういうの、」以前にもあった、…と思うのは何だか手慣れた温みに漬かっているようで

心地よいものだ。人生そのものが、ようく使いこんで身に合ってきたという風情である」

(注:「」内の太字が幸田文田辺聖子の作品からの言葉)

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時間の感じ方は、歳をとるほど速くなるとよくいわれるけれど、実感する。

子どものころは時間の外に生きていた気がする。

時の記念日」に時間のたいせつさを教えるのはカリキュラムにあるからで、

先生も子どもに説教してもムダだとわかっていたのではないか)

が、大人になれば時間を意識する。

 

現代の王様は(人間がそれを作ったのに)時計で、人間はそのしもべ、奴隷かのよう

ガチっと、「時間」という罠にしばられている。支配されている。

 

大人の最後、老人になってやっとそれが解かれ、自由の身になった気がする。

でも、決して「時間の外」という感覚じゃない。

でも、時間を「軽く障りなく、淡々と扱ってい」けるようになった。

軽ささえも忘れているよう」になった。

 

時間を「軽やかに扱う」ようになったので、小さな喜び、よいことにも気付く

ようになった。

小さい仕合せ」を見つけ、それを「次々と新しく積み重ねていくこと」ができる

ようになった。

 

そういう仕合せは「永代続くものなどない」ことは、ここまで生きてきたから

わかっていたが、わかり方が深まった。

それに、「改めてあたりを見廻すと、今まで気づかなったことで、

なんとまあ興ふかいことがたくさんある」ことか。

日々新たな発見に「おどろく」。

 

       


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何もしないで、じっと思いにふけっているという楽しみ

万物みな、一期一会のなつかしさ

ほっとするような安らぎ

人生そのものが、ようく使いこんで身に合ってきたという風情

 

同じく老人になるといっても人それぞれで、「死ぬまで現役」を押しとおしたり、

趣味など好きなことに没頭したり、技(わざ)や道に精進したり…しておれば、

何もしないで、…楽しみ」を見つけるわけにはいかないが、見つけられる生活を

過ごしている人には可能だ。

 

私もそうだから、万物みな、一期一会のなつかしさ」以降に書かれていることが

身に染みる。

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自分の人生をふり返ると、思いもしない、突拍子の出来事が降りかかった。

その自分が先に障害者となってしまい、希望はかなわなかったけれど、ホントは

退職したら身体の不自由な老人や障害児・者の移動を手伝う送迎ボランティアを

したかった。

もししていたら、「何もしないで、…楽しみ」を持つことはできなかった

かもしれない。

時間を「軽やかに扱う」というわけにはいかなかったかもしれない。

 

それはそれでいいと思う。

お二人の作家がいわれていることには深くうなずくけれど、わが老いを受けいれ、

自分の人生を、「ようく使いこんで身に合ってきたという風情」を感じられてくる

ようになったらいいなぁと思う。

 

 

 

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                              ちりとてちん

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