「(幸田文)
老人が軽いというのは、…「時間の扱い方が軽い」ということで、
「時間を軽く障りなく、淡々と扱っていく」ということである。…
(それは「大事に扱わない」ということではなく)軽やかに扱うということである。…
たとえば、日がな一日、あきずに花に見惚れている、「軽ささえも忘れているような時間を送る」
「老後の仕合せとは、小さい仕合せを次々と新しく積み重ねていくことではないか。…
仕合せには、永代続くものなどない…」
「改めてあたりを見廻すと、今まで気づかなったことで、なんとまあ興ふかいことがたくさんあるか、
おどろくのです」
(田辺聖子)
「私は何もしないで、じっと思いにふけっているという楽しみを、八十になって発見したが、
それは枯淡、というようなものではない。雨の冷たさのおもしろさ。山頭火とショパンの取り合わせの
よろしさ。ローズ色の服の着心地のめでたさ。やがて咲く若木の桜の春をまつ心はずみ」
→「内なる楽しみ」
「万物みな、一期一会のなつかしさ、しかしそれは若い人が想像するだろうように、悲しくも
淋しくもない。ほっとするような安らぎである。
何もかもがこの世での見納め、と思えば、時間も濃密に流れ、人生の楽しみの底は深くなる」
「ああ、こういうの、」以前にもあった、…と思うのは何だか手慣れた温みに漬かっているようで
心地よいものだ。人生そのものが、ようく使いこんで身に合ってきたという風情である」」
ーーーーー
時間の感じ方は、歳をとるほど速くなるとよくいわれるけれど、実感する。
子どものころは時間の外に生きていた気がする。
(「時の記念日」に時間のたいせつさを教えるのはカリキュラムにあるからで、
先生も子どもに説教してもムダだとわかっていたのではないか)
が、大人になれば時間を意識する。
現代の王様は(人間がそれを作ったのに)時計で、人間はそのしもべ、奴隷かのよう
ガチっと、「時間」という罠にしばられている。支配されている。
大人の最後、老人になってやっとそれが解かれ、自由の身になった気がする。
でも、決して「時間の外」という感覚じゃない。
でも、時間を「軽く障りなく、淡々と扱ってい」けるようになった。
「軽ささえも忘れているよう」になった。
時間を「軽やかに扱う」ようになったので、小さな喜び、よいことにも気付く
ようになった。
「小さい仕合せ」を見つけ、それを「次々と新しく積み重ねていくこと」ができる
ようになった。
そういう仕合せは「永代続くものなどない」ことは、ここまで生きてきたから
わかっていたが、わかり方が深まった。
それに、「改めてあたりを見廻すと、今まで気づかなったことで、
なんとまあ興ふかいことがたくさんある」ことか。
日々新たな発見に「おどろく」。
ーーーーー
「何もしないで、じっと思いにふけっているという楽しみ」
「万物みな、一期一会のなつかしさ」
「ほっとするような安らぎ」
「人生そのものが、ようく使いこんで身に合ってきたという風情」
同じく老人になるといっても人それぞれで、「死ぬまで現役」を押しとおしたり、
趣味など好きなことに没頭したり、技(わざ)や道に精進したり…しておれば、
「何もしないで、…楽しみ」を見つけるわけにはいかないが、見つけられる生活を
過ごしている人には可能だ。
私もそうだから、「万物みな、一期一会のなつかしさ」以降に書かれていることが
身に染みる。
ーーーーー
自分の人生をふり返ると、思いもしない、突拍子の出来事が降りかかった。
その自分が先に障害者となってしまい、希望はかなわなかったけれど、ホントは
退職したら身体の不自由な老人や障害児・者の移動を手伝う送迎ボランティアを
したかった。
もししていたら、「何もしないで、…楽しみ」を持つことはできなかった
かもしれない。
時間を「軽やかに扱う」というわけにはいかなかったかもしれない。
それはそれでいいと思う。
お二人の作家がいわれていることには深くうなずくけれど、わが老いを受けいれ、
自分の人生を、「ようく使いこんで身に合ってきたという風情」を感じられてくる
ようになったらいいなぁと思う。